アンダンテ 跡部のこんな姿を見たことがある女は、おそらくこの世に私と跡部のオカンだけであろう。いや、オカンの前でもこうはならない。あの跡部が人前で酔いつぶれるなんて。かつて中学生と思えないカリスマを誇った氷帝の王様は、テーブルに肘をついて壁に寄りかかっている。学園中の女子を虜にした瞳は今や半開きだ。マジか。 思えば今日はどこか様子がおかしかった。居酒屋チェーンのうっすい酒を「たまにはてめえらに合わせてやるよ」と文句も言わずに飲むし、注文したお造りがメニューの写真とぜんぜん違った時も怒らなかった。 二次会の後、みんなそれぞれ明日用事があるとかでお開きになり、珍しく歩きの跡部と帰り道が一緒になった。終電まで飲み直すぞ、と跡部かららしくない台詞が出てきたので何の気なしに三軒目に入って、それからものの20分でこれだ。あいつらほんっとガキのまま変わってねえなと言いながらさっきまでジントニックを飲んでいた跡部は、言葉少なにグラスに浮かんだ氷をからから回している。 「跡部、だいじょうぶ?」 「アホのに心配されるとはな」 「ほら水」 「チッ・・・」 どうしよう。さっき席を立ったとき忍足に電話で助けを求めたが、そっちでなんとかしてえな、とすげなく断られてしまった。昔っから変わっちゃいない、あの薄情メガネは面倒を回避するのに長けている。ホント頼りになんねーな。枝豆を口に放り込むと、「どうしよう跡部が酔っぱらった」と机の下で打ち込む。送信した瞬間、ぱっと携帯が取り上げられた。 「俺の前で誰に連絡とってんだ、アーン?」 「別に誰にも・・・終電の時間調べてんだって」 「バレバレの嘘ついてんじゃねえ」 目の前で左右に振られた画面に、岳人からの返事がきている。「よかったじゃん」だと。何がだよ。ざけんな。苛立ち任せに生ハムを4枚一気に取って頬張った。岳人のいわんとする意図はわかっている、くだらない冗談だ。 中2の冬、跡部に告白した。私もその辺にいる普通の女子中学生だったということである。好きだったのだ、顔が。あとテニスが強いところ。いまだにアホのダブルスがそのことをからかってくるが、たかだか14の小娘があれだけ非凡な存在に惹かれない方がおかしい。現にほとんどの氷帝女子は、バレンタインなり誕生日なりで少なくとも1回は跡部に貢ぎ物をしたことがあった。アイドルにワーキャーいいたい年頃なのだ。当時のことは黒歴史というよりは楽しかった思い出である。 あと、跡部には勿論フラれた。なんと断られたかは覚えていない。私も私で色よい返事など期待していなかったので、ですよねーと納得して残り一年はマネージャー業に没頭した。それから皆エスカレーター式に高等部へあがり、跡部はどっか知らん外国へ飛び立った。 携帯を奪い返し、さっと背を向けて岳人に「よくねーよ」と返信した。バッグに入れて顔を上げると、跡部が不遜に腕を組み、目を眇めてこちらを見ている。 「彼氏か?」 「いたら二人で飲みになんか来ないよ」 ・・・・・ん? 言い返した後ではっとした。これじゃ他意があるようにきこえる。 「あ、今の違うから。深い意味ないから」 「フン・・・また告られんのかと思ったぜ」 「!??」 あんまりにも驚いたので持っていたグラスから酒が少しこぼれた。てめえはいつもそうだな、と文句を言いながら跡部がおしぼりを取ってテーブルを拭く。目が据わってフラフラのくせにこういうとこはスマートでむかつく。いや、別にいいんだけど。跡部のいいところだ。しかしなんなんだ今の?席が対面であることが急にやりづらくなってくる。目のやり場に困って私はとりあえずピスタチオをむく。 「いや、ないわ」 「あっただろうが。中2の冬」 「あったけど。めっちゃ前だし、忘れたし」 「アア??忘れてんじゃねーよ、こっちは覚えてんだよ」 「は?いや、なんで覚えてんの、跡部中学で千回くらい告られてたじゃん」 「全部覚えてるわけねーだろ。つーかてめえはいつまでピスタチオむいてんだ」 皿にたまったピスタチオだらけの視界に、突然腕が伸びてきた。「っぶ、」顔面を容赦なく掴まれて上を向かされる。いてえ!!跡部はテーブルに身を乗り出して、私の両頬を挟む右手に力を込めた。この酔っぱらいめ。マジいたい。 「あとべ、痛い、顔へしゃげる」 つぶれた口を動かして抗議したが少しも力が緩むことはなく、それどころか前へ引っ張られて不可抗力で私は立ち上がる。ガタンとうるさく椅子が鳴り、ああこんな客店員の立場から見たら超萎えるわ、と他人事のように考えた。息が触れそうな距離に跡部の顔がある。くそイケメン乙。直視できず目を逸らすが、灼き殺されるような視線で頬が熱い。この上なくブサイクな顔で跡部と対峙している。なんだよこの拷問。 「ちょ、一回おちつけ」 「こっち見ろ。見るまではなさねえ」 「っな、なに言ってんの恥ずかしい!酔いすぎ!」 「どうでもいいんだよそんなこと。答えろよ」 「何を」 「は忘れてたのかってきいてんだ」 いよいよ腹を決めて目を合わせた。「いや、告白したのは覚えてるけど細かいことは忘れました・・・」何を言わされてるんだ私は。あまりにも居たたまれずいっそ小さくなって消えたいが、跡部が「ありえねえ」と目を吊り上げたのにはさすがにカチンときた。こちらもむっと眉を顰めて反撃の一手に出る。 「でも跡部、フッたじゃん」 思いのほかその言葉は効いたようだった。途端に手がほどけて私は解放された。跡部の面食らった表情に、してやったりという気持ちが湧く。 「あと、留学中外人の彼女いたじゃん」 「・・・なんで知ってんだ」 「写真見た。忍足がくれた」 「ッチ、あのエセメガネ・・・ブチ割る」 私は頬をさすりながら席に着いた。跡部は心底悔しそうだが、美人の彼女のことはテニス部の連中みんな知っている。パーティーらしき場所で腕組んだツーショット写真を、忍足がどっかから見つけ出して拡散したのだ。跡部は「あれは政略的な」とか「別になんでもなかった」とか言って茶を濁している。私はさっきこぼして嵩の減ったカンパリソーダのグラスを一気に空けた。 「もしかしてさあ」 「アーン?」 「跡部、後悔してる?」 「うぬぼれんな」 「じゃあ、なんであんなこと聞くの」 「うるせえ。が俺を詰問なんざ、百年早いんだよ」 「あ」 「・・・・・・・・」 「・・・・・・思い出した」 テニス部部室横。長い沈黙の後、十年早え、と吐き捨てて走り去った跡部の後ろ姿。まさか。 あの瞬間の冷たい風の匂いすら鮮明によみがえって、心臓がうるさく音を立て始めた。ばっと前を見る。今度は跡部が目を合わせようとしなかった。 「跡部、まだ十年経ってないよ」 「別にあれは約束のつもりじゃねえ。・・・逃げただけだ」 「なんで」 「すぐに答えられるわけねーだろうが」 考える時間がほしかったんだよ、と零すと跡部もグラスを煽った。小さく融けた氷が音を立てる。私はめちゃくちゃに脱力した。考える時間長すぎだろ。酒のせいかちょっとだけ泣きそう、なのにバカバカしくて妙におかしくなってきた。首まで真っ赤にした酔っぱらい二人が今さら何年前のことで騒いでるんだ。私らもういい大人だよ。「で、やっと考え終わったの?」食べようとしたピスタチオを私の手から奪い、跡部は挑発的に笑った。 「どうせだからまだ焦らしてやるよ」 この期に及んで格好つけるとは。しかもそれで格好ついているのに恐れ入る。そういえば昔はこの自信に満ちた振る舞いに参ってしまってたんだよな。中学時代を思い出して懐かしくなるが、いまだに翻弄されるのは癪だ。一回くらいやり返してやりたい。私は携帯を取り出し、ホームボタンを押した。岳人からうざいスタンプが届いている。今の時刻は0時20分。 「・・・あ、今終電出た」 「迎えを来させる。心配すんな」 「ううん、いい。歩いて帰ろ」 「ああ?」 「どっかで休憩しよ」 「っバカ野郎!女からそんなこと言うんじゃねーよ」 返事をせず笑いかけると、私はコートを着て立ち上がる。跡部はなんともいえない表情で取り乱していたが、ウエイターを呼ぼうとした私の頭をぽんと叩き、先に外へ出るよう促した。こういうとこだよなあ。 やがて店から出てきた跡部に礼を言うと、前に立って手を引き、ふらつきながら夜の繁華街を二人で歩いた。本気か、とかお前酔ってんだろ、とか後ろから声が飛んでくるけどあんたに言われたくないよ。 跡部はしばらくワーギャー言っていたが、耳を貸さずに駅前のマクドまで連れてきてやった。我ながらひどいなとも思うけど、これだけ時間がかかったのだから私たち、もう少しダラダラ遠回りをしたっていいだろう。 「だって跡部が焦らすから」 お詫びに烏龍茶を渡したときの跡部のむくれた顔がかわいくて、私は笑ってしまった。 20150509 |