水星


 薄暮れのヨークシンシティは、記憶にあるより美しいところだった。海沿いのプロムナードを歩くと、遠く中心街の喧騒が潮の香りをまとったぬるい風に乗って運ばれてきた。石畳の道に真新しいレストランが立ち並ぶ傍ら、オレンジ色の街灯が点々と続く先に港があり、停泊した貨物船が長く汽笛を上げている。

 九月三日。惨劇の夜よりオークションの再開には丸五年を要した。民間人の犠牲はほぼなかったものの裏社会の甚大な被害により勢力図は一変し、三度の市長選を経てマフィア関与の是非で揉め、ようやく今日にこぎ着けたという。結局癒着はどうなったのだったか、ラジオが終わる前にここへの飛行船が着いたのでキルアは知ることができなかった。
 まあ無理筋だろう。とても現実的ではない。どちらにしろニュースじゃ流せないだろうが。あのへんの利権争いにも親父あたりが一枚噛んでんじゃねえのかなと思い至ったところで半歩前を歩いていた彼の連れが振り返った。
「みんなからまだ連絡ない?」
 ないよ、と携帯も見ずに返事をするとはそっかーと気の抜けた声をあげ、また歩き出す。適当に答えはしたが、事実キルアの携帯には連絡は入っていないのだった。

「じゃあなんか軽く食べとく?」
「ん〜」
 どちらともとれない生返事を聞くが早いかは目の前にあったバルのテラスに空席を見つけ、スチール椅子を引いて羽織っていたカーディガンを引っ掛けた。頬に張り付いた髪を払い、用もないのに爪先立つと振り返りざまに小さく手招く。
「早く早く!」「んだよ」「日が落ちて涼しくなる前にビール飲みたい」「アル中女…」
 店員を探してそわそわするを横目にことさら緩慢な動作で席につきながら、落ち着きのねーやつ、とキルアはかつての彼女の姿を重ねる。ハンター試験中、張り詰めた空気などかけらも気にせず飛行船の中を走り回っていたのは彼も同じことだったが、そうした子ども時代は実感としてずいぶん前に過ぎていた。そこそこに賑わう店内を何の気なしに見ていると仏頂面の若い店員がテーブルを縫うようにして早足にやってくる。バドワイザーでと発した彼女に被せるように俺も同じの、と注文すると向かいで肘をついたが何かを言いたげにニヤついた。

「なにニヤニヤしてんだよ、キモチワリー」
「キルアと乾杯できる日がくるなんてね〜」
「それ、前会った時も言ってたぜ」
「えー、そうだっけ?」
「つかちょっと年上だからって大人ぶんのやめろよなババア」

 誰がババアだよ!と立ち上がりかけたところで二人の間にぬっと腕が伸びてきて、ドン、と無骨に瓶とグラスを給仕した。気勢を削がれ大人しく席に着いたは、手早く瓶をキルアのグラスに傾ける。じゃあ乾杯ね、と言って笑った友人の口元は経た年月なりのそつないやわらかな弧を描いて、キルアもそれ以上余計な口を叩く気にならず素直にグラスを掲げた。

 ヨークシンシティで会おうと言い出したのは誰だったか。話が出たのも半年以上前のことだ。気ままにハンター稼業を謳歌する三人には然程難しいことではなかったが、年長者二人が遅い夏季休暇を取りつけるのに相当に骨を折った。
 とはいえてんで違うところへ散らばってそれぞれに冥土を見た挙句五年も経ってこの街へ舞い戻ってくるのだから、どいつもずぶてえよな、死んでもしなねーやつらだよな、と自分を棚に上げてキルアは思う。その図太い同期であるところの一人はあれからグラスを二杯空け、店へ入ったときよりすこし機嫌がよさそうに彼の先を行く。はぐれんなよ酔っ払い、と浮かれた背中に投げつけたが雑踏に紛れて届かなかった。
 あても考えもなく先導を任せたところいつの間にか中心部へ戻ってきたようで、道の左右には値札競売市が軒を連ね、変わらない情景が先の方まで伸びていた。金策に焦りあちこちのガラクタの値札に名を書いて回った茹だるように暑い日が、ほんの数日前であったかのような実感を伴って思い出される。
「…懐かしーな」
 キルアの独り言に答え、そうだねえとが呟いた。

「なんか買ってくかなあ」
「あ〜ダメダメ、やめとけって」
「なんでよ」
「あんとき一番ゴミ引いてたのじゃん」
「はー!?キルアそういうとこ変わんないよねーー」

 女の買い物に付き合う甲斐性くらい、見せなよね!とどこで覚えたのかまるで馴染まない口上をへーへーと交わし、キルアはするりとの傍をくぐり抜けた。ポケットから少しだけ引き上げた携帯画面を確認すると後ろから、連絡きた?と声がかかる。依然何の通知もよこさない携帯を滑り入れキルアは振り返る。「まだ」「そっか」ひとつ身震いをしては左手に持っていたカーディガンを羽織った。すでに日は沈み少し冷え込んだ夜の街は一際雑踏を極めている。渋滞の中で競うようにクラクションが鳴り始めた。久々の催事に沸く街の初日は今方ピークを迎えるだろう。
 どうすっかなー。道の真ん中で突っ立ったままキルアは高層ビル群のその奥、視線を斜めに下ろした先の何かに目を留めた。ここから北、そう高くない丘の中ほどに煉瓦建の建物があり、丸いガラスの屋根に街の光が小さく反射している。
「なー、」
「ん?」
 あれ登るか、と思ってもみない言葉が彼の口をついて出た。








「キルアーーやめとこうよーー」
「らしくねーこと言うじゃん、ほらいくぞ」

 施錠された門の脇をキルアは軽々と飛び越え、敷地内に降り立った。そう遅い時間ではないが辺りに人気はない。オークション期間中は夜間閉鎖、と案内板に張り紙がされている。公共施設だしそんなもんか、とキルアは順路に従い歩き出した。緩やかな坂道の両脇には芝生が広がっている。施設の明かりは完全に落ちていたが屋外は申し訳程度に電灯で照らされ周りにあるものくらいは把握できた。
 後ろでえーとかあーとか言っていたが、次いで門の内側へ降り立つ。子ねずみのように体を縮こませて駆け寄ってきたは、追いつくなりきっと目を釣り上げてキルアを覗き込んだ。

「置いてくとかひどくない?」
「お前がビビってるからだろ」
 プロハンターのくせに、と茶化しながらキルアはこの友人は暗い場所が苦手であったことを思い出す。
 三次試験、トリックタワーで先の見えない狭い通路の先頭を歩くのを尋常でないほど拒む様子が当時の彼にはおもしろかったのだ。あのときは無理やり先頭に押し出して烈火のごとく怒られた。変わってねーのはお前じゃん、と内心呟き、キルアは隣を歩くの手をとった。想像していた以上に細く頼りないのではっとしたが持ち前のポーカーフェイスですぐに取り澄まし、今度は聞こえないくらいの声で、プロハンターのくせに、と呟いた。一方のでにわかに動揺して目をぱちくりさせたがそのまま歩き続け、二人はすぐに静まり返った建物の前で行き止まった。

「閉まってるね」
「電子ロックじゃんこれ」
「え?ちょ、うわあ」
 キルアが空いた方の手をかざすと、が制止する間もなく一秒ほどで軽い電子音が解錠をしらせた。自動ドアが開き、彼は手を引いて一切悪びれた様子なく中に入る。

「ラクショー」
「いや、ふっつーに開けたけど…」
「最近加減が上手くなってぶっ壊さずに開け閉めできんだよな」
「キルア何ハンターなの?空き巣ハンター?」
「ちっげーよバカ」

 暗闇で壁を手探りそれらしきスイッチを押すと、天井の蛍光灯が手前から順に点いていく。明るくなった室内はあまり広くなく、入り口すぐ右手に案内カウンターがあるのみで、飾り気のない縦長の部屋をまっすぐ進んでいくと突き当たりはエレベータだった。ボタンの手前にはこの建物を模した顔はめ看板があり、デザイン性もへったくれもないポップ体でヨークシン市立展望台の文字が躍る。

、ここ顔入れてみろよ」
「入れんわ!」
 そうしてゆっくりとドアが開くと、いこいこーなどとのんきなことを言いながら今度はが手を引いた。

 入ってみるとエレベータ内はかなり薄暗いが、先行く彼女はつい数分前までの強張った顔はどこ吹く風で、中は広いねーと素朴な感想を述べる。けろりとした横顔にキルアがアホだこいつ、との念を改めて強くしたところでドアが閉まり足下が一揺れした。動くか動かないかのうちに隣から声が飛ぶ。

「キルア、上!」

 星だ。

 そう思ったのと同時に、キルアはなぜここが薄暗かったのかを理解した。
 この塔は上まで吹き抜けの円柱状になっており、床ごとせり上がって頂上まで着くと丘の上へ抜けられるようだった。円いガラスの天井を透かして満点の星明かりが二人のもとへ射し込んでくる。深く暗い海の底から水面を眺めているようで、上昇していく浮遊感の中しばしどちらも口を開かなかった。
 やがてがはー、と小さく息をつく。

「きれい」

 その呟きには珍しく景色というものに対して感傷的になっていたキルアも同意できたが、離すタイミングを逃した右手の所在無さで、適当な相槌でさえ発するまでに時間がかかった。「星、ちけーな」口に出してからオレもアホっぽい、と思う。そんなに高い場所じゃない。もっといえば彼の生家や天空闘技場、遥かに空に近いところで幾度となく星を見た。そぐわない気がしたが言い直すのもそれはそれで違うようで先ほどの言葉を反芻しているとが、キルアの背が伸びたんじゃない、となんとなしに言い、キルアは咄嗟に壁の方に顔を背けた。

「どしたんキルア?」
「なんもねーよ…」
「そー」

 尋ねておいて特に意に介した様子もなくは一心に天井を見上げていたが、あっと小さく声をあげて繋いだ手を揺らした。

「見て」
の指差した先、無数の星の中に一つがひときわ強く青い光を放っている。
「青い」
 キルアはそうだなと返す。

「水星だ」
「ちげーだろ」
「…」
「つか水も青くねーから」
「…も〜〜〜〜〜キルアってば昔からさ〜〜〜〜」
 冷たいねキルアはとぶーたれるにばーかと追い討ちをかけ、目を凝らすと光はゆっくりとではあるが夜空を動いているように見えた。あれは飛行船じゃないかと至極真っ当な結論に至ったキルアは、光をしばらく追っていた。

「でもま、あの星きれいだな」
「そうだね」

 それきり再び黙った二人を、エレベーターは上へ上へと運んでいく。
 この場所は五年前にもここにあったんだろうか。沈黙の中で取り止めのない思考がキルアの頭をよぎっていった。
 けれどもこれを降りたらきっとそうゆっくりもしていられないだろう。二人はよく知る街の夜の中に帰る。






「わたしたちラッキーだったね」
 いよいよ天辺へ着こうというときにが言った。

「みんなにも見せてあげたかったけどさ」
 続く言葉にキルアは脱力し小さく笑った。お前はそういうやつだよな。
「まあ、大丈夫だろ」
 全く噛み合わない返事をすると、謀ったようなタイミングで彼のポケットの中で携帯が震えた。何が?と首をかしげるには答えず、手を引いて外に出る。
 三人とも時間は守るから、もうすぐこの街に着くはずだ。何の連絡が入ったかは画面を見なくても知っていた。


 着いた先の展望台はなんてことのない小高い丘で、一通り夜景を眺めると二人は脇にある階段を競って駆け下りた。今この瞬間がまるで夢のあとのようで、高揚した気分で近づいてくる街を横目に全力疾走しながら、キルアはこのあとの辻褄合わせについてなにひとつ考えていなかったことに気づいた。出来心といってもいい気軽さで古い友人から二時間を盗み手に入れた。こうまでして、オレはあいつと、どうしてこんなこと。珍しく息が上がったが振り切るように走り続ける。心臓が痛いほど大きく鼓動している。眼下に広がるヨークシンシティの光は十二才の頃よりずっと眩く瞬いていて、それが何よりの答えだった。

 早いよ、と後ろでよれよれの声が聞こえる。キルアは振り返ってけらけら笑い、「急げ!」と叫んだ。そうしてまた走り出し、後先を考えずに嘘をついたのはいつぶりだろうと考えたが、ちっとも思い出せなかった。







20190601