ボールペンを走らす右手はまるで自動書記のように、書き慣れた暦をすらすらと並べた。次の行の上でペンを弄び、今日は何日だったっけと宙に視線を泳がせる。目の前の大きな窓の外はまだ明け方。薄暗闇に映った自分と目が合って気付く。あー。また去年の日付書いてる。

新年を迎えて二週間経つ。部室の扉には真田持参の正月飾りが年初のこざっぱりして落ち着かない空気を思わせるが、うちのテニス部は三が日もへったくれもありゃしない二日から鬼の練習を再開した。冬休みが正月特番がとぼやく切原新部長が、退いて尚も部を掌握する旧部長にしごかれる姿を見ていると、どうしても年が変わったことの実感が湧かない。私も引退のタイミングを逃してのこのこ出てきてるし。日誌を書く残り回数も限られてるのに、なんかしまらないなあと思いながら誤った西暦を二重線で消した。隙間から入る風に身震いした時、通りの良い澄んだ声が突然投げられた。

、また日付を間違えただろ」
「!」
「年が明けて何日経ったと思ってるんだい?…ピヨ」

かすかな声だったが、反射的に縮こまったまま私はたしかにその気の抜けた語尾を捉えた。また騙された。学ばない鳥頭を嘆き、億劫ながら振り返る。

「いちいち幸村の声で言うのやめてよ…」
「プリ」
「ほんとあんたの体どうなってるの」
「それは企業秘密だから教えられん」

足音も立てずに背後へ忍び寄っていた仁王は、くっくと笑いながら壁際に立て掛けてあったパイプ椅子を引き、事務机の左側を陣取った。広げている日誌を押しやるとスペースを作り、仁王はさっさと肘をついて上体を机上に預ける。書き物には相当窮屈になったが、仁王が組んだ腕に鼻先まで埋めながら一言、ネムイと呟いたので邪魔だと言い損ねてしまった。目線を再び紙面に滑らせる。

「仁王はいつも眠いじゃん」
「冬の朝は特別じゃ」

ブレザーの袖口から覗く仁王の手は、透けるように白い。ほんとにテニス部か?夏の日焼けが落ち着いたのかもしれない。

「暑苦しいのはかなわんし、俺が楽に過ごせるんは秋だけよ」
「春は?」
は花粉症がどんだけしんどいか知らんじゃろ」
「うん知らない」

仁王は伏せったまま手を少し動かして、指先でページの端をもてあそんだ。ボールペンの頭でつついてやると、細い指がそれを捉えて絡め取る。

「なあ覚えとる?真田の奴よ、あん時俺のマスク見て、“樹木に負けるなどたるんどる!”」
「うわっ!ヤバ何今のめっちゃ似てる」
「樹木て、なあ、そりゃないじゃろ」

恨みごとのはずが仁王の声は心なしか笑っていた。声真似の完成度とすっかり忘れていた懐かしい思い出をふいに掘り起こされたのとで、私も奇妙に込み上げてくる笑いを止められない。ペン先は未だ仁王の指につかまっている。「仁王ってば、」笑いの名残で名前を呼んで引っ張ってみても、返ってきたのは二度目の「ネムイ」だった。腕と机との隙間でもごもごと籠った声に、不意に顔が緩んだ。

「そりゃ練習まであと40分あるし」
「そんなにあるんか…」
「早すぎて誰も来てないよ」
はおったじゃろ。いつもなん?」
「いや、今日だけ早く目が覚めた」

ふーん、と仁王はさして熱心でない返事で会話を締めくくった。と同時にぱっとボールペンから力が抜けた。仁王は手遊びを止め口を噤んでいる。眠っているのだろうか。顔を伏せているから分からない。沈黙。足元に揺蕩う朝の空気は冷え込んでじわじわと体温を奪っていく。怠惰な時間だ。冷え込みとは裏腹にぬるくて心地いいと思うし、その反面どこかそわそわする。誰かが入口のドアを軋ませればいいのにと願い、また40分が永遠であるようにとも強く思った。それっきり話題が見当たらなかったので、私も倣って口を閉じていた。

「俺も目が覚めたんじゃ」

突然会話の続きが始まったので私は少し驚いて、ペンを走らす手を止めた。毛並みの良い猫のような頭がもぞ、と動く。さっきまで胸の辺りを満たしていたものが徐々に緊張感に姿をかえていく。残り少ない日誌のページと乾いた冬の空気が、急に季節を実感させた。

「珍しいね。仁王そんなの初めてでしょ」

彼はにわかに顔を上げた。額を覆う銀髪が目に掛かり、一度瞬きをした。

「惜しんでるのかもしれん」




あっさりと口に出してから、仁王は煩わしそうに前髪を払い「いや、」と否定した。ちらと横目に私を見、物言わぬ様子に何を思ったのかすぐに視線を逸らして違う、とかぶりを振った。

「違う」

珍しく見せた感傷のようなものを認めたくないようだった。部員の中でも仁王はそういったことに淡白なのだ。ばつの悪い笑みを貼り付け、彼が打ち消そうとするたびに結んだ後ろ髪が尻尾のように揺れる。−−−…その瞬間だった。突然、目の前をこの三年間の全てが一瞬で通り過ぎた。今まで意識の底の方に沈澱していた別れの予感が、いっせいに胸の内に舞い上がる。じきに冬も終わるのだ。

?」

この瞬間はきっとこの先、他のたくさんのものと同じように、時折寂しさをつれて頭の片隅にきっとあらわれるだろう。またたく睫毛が触れる微かな音さえ。仁王、

「好き」



恐らく、いつもの人を食ったような表情をし損なったのだろう。仁王は口元に手をやり、しかし瞬き二つを終える頃にはすずしい秋口の風のような、私のよく知る目をしていた。依然口元を隠したまま。

「嘘」
「ほんと」
「嘘じゃろ」
「ほんとだってば」
「待て、待てよ」
それだけ言って仁王は私の言葉を受け付けなくなった。日誌の上で組んだ冷たい手先を置き去りに心臓の奥はじわじわと熱を増していく。結露したガラスの上を水滴がいくつも流れ、線を描いた。窓へ顔を向けた仁王は、はあ、という短い溜め息のあと、円く曇ったところを白い指で所在なくなぞる。

「本気で言うとるん」
「そうだよ」

視界の端でまた尻尾が微かに揺れる。思いがけず手を伸ばしブレザーの背を少し引くと、窓の片隅でうごくでたらめな軌跡がふと止まった。そこから言葉が出てこない。これ以上力が入らないのに、それでも放してはいけないような気がした。







「もう少し、この部におりたいのう」

ようやく差してきた冬の朝陽で辺りが白んできたとき、仁王がぽつりと呟いた。やさしさの溶け出したような声だった。柔らかい光を透かし始めた窓には私たちの姿は映らない。互いに顔を合わせられないのは分かっている。それでも私たちの時間があまりに早く過ぎ去ってしまうので、私は頑なにそっぽを向いている仁王の制服をもう一度引いた。

「仁王、こっち向いて」
「ムリ」




20130208