酔って携帯を沼に落とした。二ヶ月前の話だ。沼て、と思うがなんともまあ、そうとしか形容できないぬめりだったのである。あれは。慌てて拾い上げたが猛烈にくさい藻が絡み付いていたので再び沈めて帰宅した。酔っていたのだ。 新しいのを買わなかったのは、別段理由はないけれども、それもアリかなと思ってしまったからだ。でかいヤマが終わり誰とも連絡を取る予定がなかった。ついでにいい機会なので旅に出た。携帯電話ってのは失ったことに慣れるとそれはもう快適。宿の予約とかその辺で少々不便はあるものの、まあどうにかなるもんだ。 「お昼はなにを食べよう」 無人駅なので独り言も言い放題だ。昨日投宿したのは山あいの湖畔に佇む、小さく静かな町だった。 遅めにチェックアウトを終え、ぎりぎりの時間に駅に着く。道中長いから車内でパンでも食べて爆睡するつもりだが、私を咎める者などありはしない。世捨て人感に目を瞑れば完璧すぎる。 そのはずだったんだけど。 「マキ」 クロロがいた。乗ろうとしてた列車のドアが開いた瞬間、たったひとりホームに降りてきたのだ。意味不明すぎて脳が理解を拒否し、動いてるし現実なのにコラ画像か?と一瞬思った。 「クロロ?」 なんで?固まってる間に私たちを残して列車が動き出す。赤い車体が秋晴れの空に光って、凄い速さで目の前を走り去っていった。静かになったホーム。山の上の方で小鳥が鳴いている。たっぷり間をとった後、クロロが口を開いた。 「……電話が、」 「ん?」 「繋がらなかったんだが」 「………は?」 「メールの返信もなかった」 述べ立てるクロロはいつも通りの冷静沈着を顔に貼り付けていたが、言葉の端々に拗ねたようなトーンが滲んでいる。何か仕事の用件でもあっただろうか。いや、そんなはずはない。といってプライベートの方はもっとない。 なぜ。悪いことしたみたいで居た堪れん。 「あ、私この前携帯水没したから」 「替えは?」 「ない」 「お前有り得ないぞ」 「連絡なんて普段取らないじゃん。逆になんか大事な用事あったの?」 「ないが」 「ないのかよ。あの、まさかだけどここまで私に会いに来たの?」 「ああ」 なぜ??用もないのに。ラフな格好で身一つで、こんな山奥まで。黒い瞳が物言いたげに私を映している。少ない選択肢から、さして悩みもせずバカげた考えが消去法で浮かび上がった。口にするのも躊躇われるが、どうやら正解を出さないことにはこの時間が終わらなそうだ。 「もしかしてクロロ」 「…」 「死線くぐる現場は平気で放り込むくせに、たった二ヶ月連絡とれないだけでそんなに心配してたの?」 「だったらどうする?」 おろした前髪の奥から、文句でもあるのかという堂々とした視線で射抜かれた。真っ正面からそんなことを言わんでほしい。えーっと。文句は別にないです。くそ、こっちの方が照れてしまった。なんなんだこの人。 困る私を無視してクロロは壁に貼られた時刻表を見つめ、次は四時間後かとうんざりしたように息をついた。 「なんて僻地だ。こっちの都合も考えろ」 「あ、うんゴメン…。いや?なんで責められてんの?」 「ひとまず町に出るか。もう昼だ、飯は軽いものがいいな。案内してくれ」 「マイペースすぎるでしょ。クロロってほんと人の話をさあ…」 「マキと二人で飯を食べるのは、初めてじゃないか?」 …。面食らったけれど素知らぬフリして歩き出す。知らない土地をきょろきょろしてる姿がいつもより幼く見えて、不満の声が引っ込んでしまった。この人ホントにさ。 そうだね。 「ランチできるとこ一軒しかないけど、サンドイッチがおいしいよ」 「ならそこにしよう」 「うん」 「それと、五千万」 隣でクロロがつぶやいた。何が? 「お前を探すのにかかった金」 あとで請求するぞ、とありえん発言を残して、唖然とする私の先をスタスタ歩いていく。えっウソでしょ。 圏外 210904 |