寒い、と思って目が覚めた。冷たく静謐な空気の中、仰向けの体が鉛のように重く沈んでいる。知覚した瞬間大きく耳鳴りがした。何重にも包まれたヴェールの向こうで色んな音が重なり鳴っている。しばらく耳をすますとそれらは木々の枝葉が揺れる音や、ふくろうに似た鳥の鳴く声や、大勢の人の声だったりした。どうやら人気のない山奥で、硬いコンクリートの上に寝かされている。そのままの体勢で薄目を開けると誰かがそこに座っていた。背を向けたまま。

「傷はどうだ」

……。なんでこっち見てないのにわかるの?気まずさに身が縮む。

「……………めっちゃ痛い」
「だろうな」
「めーーーっちゃ痛い………」
「分かった分かった」

 望んでもないのに推算数時間前の記憶が洪水のように溢れ出て、ぼやけていた意識を冴え渡らせる。月は雲に隠れてまだ夜空の高いところに浮かんでいた。傷に手をやると血は止まっているが、一周まわって笑えるほど痛い。仰向けで転がっててもとても休息をとれる気分でなく無理やり上体を起こすと、大きな眩暈のあとじわじわと視界が広がり確かになってきた。
地面についた手が古い吸い殻に触れる。ひび割れた壁には蔦が幾重にも絡み、重い鉄のドアの向こうから蝋燭らしき灯りが漏れていた。ここは廃墟の外階段だろうか。過去よく似たアジトに立ち寄ったことがあった。
 クロロは錆びて朽ちた手すりに凭れて座り、静かに酒を飲んでいる。

「……足引っ張ってごめんなさい」
「随分しおらしいな」
「だって……」

 クロロは缶を持った手で向かって左を指す。目で追った矢先、建物の中から爆発でも起こったのかというほどの笑い声がどっと雪崩出て私の鼓膜をビリビリ揺らした。よく聞き取れないが中の全員酔っ払っていることは確かだ。宴もたけなわなのか何だか歌まで聞こえてくる。盛り上がりに盛り上がる室内をやや呆れ気味に一瞥しクロロが「大成功だ」と言った。大成功なんかい!

「そういうことだ。お前は自分の心配だけしていればいい」
「それならそれで」

 よかったけどと続けようとしてやめた。何もよくない。自分の体からメントスコーラのごとく血がドバドバ吹き出してたし、あの場をクロロに任せておけばその傷さえ負う必要はなかったのに。穴があったら入りたい。やらかしたなあ。内省を強いるように外階段に身を切るほどの風が吹きっさらした。クロロは酒をさっと煽ると、もう眠れないだろと素っ気なく告げた。中のどんちゃん騒ぎと私の沈痛な自己嫌悪どっちのことだ。促すような視線に負け、重い体を引き摺りクロロの隣へ座る。

「クロロは中戻らないんですか?」
「あの中にか?俺はここでいい」

 狭い階段に二人並んで、行き所のない視線を階下に向けた。雲間の月明かりが届かぬ影の先、数段下は深い闇が広がって何も見えない。みんな楽しそー。ぽつりと零すと、同じくらい小さな声で呑気な奴だなと返ってくる。

「腑に落ちないんだが」
「ん?」
「お前の行動が」
「私もちっとも腑に落ちてない」
「ごまかすな。聞かせてみろ」
「上からすぎない?」
「なんとでも言え」
「……クロロがやられるのってなんか違うでしょ」

 ただ放っといたところでやられるわけがないので、見立ては間違ってたわけだ。なんか違うで身を投げ出すとは全くのアホとしかいえないものの、内心他の団員はこういう気持ちで彼の下にいるのだろうかと思う。私は蜘蛛じゃない。でも替えのきかない人だとは分かる。おいそれとその辺の誰かに傷つけられるべき男ではない。

「感覚的で理解しがたいな」
「そうだけど。それ以外にないんですよ。大した理由なんて」

 束の間の沈黙の後、クロロはそうかと静かに呟いた。

「もうあんな真似はよせよ」

 春の海のように穏やかな声に、もっと厳しいことを言われるものだとばかり身構えていた私は些か面食らった。頷き半分、顔も合わせず別の方向へ逃がした目線の端でクロロの右手が空き缶をくるくると回す。そうして一言、お前は地獄でもやかましそうだからなと続けた。

「いや死んだら別行動でしょ」
「そうか?」
「私天国行くし」
「あれほど罪深いプリンを作るやつが地獄以外に行けるわけないだろ」
「行けるわ!」
「やめろ、喉に罪がこみ上げてきた」

 味思い出すのやめろ!私マジでなんでこの人体張って守ったん?この期に及んで低次元の睨み合いは、酒を取ってくるという相手の発言で程なく幕を降ろす。額にかかる髪をかきあげ、クロロがいつも通りの涼しい顔でこちらを伺った。

、お前は何がいいんだ」
「お酒?いらないですよ、飲めるわけないでしょ」
「つれないな。こういう時は受け取るものだろ」
「刺されたとこから出るし」
「見たいから飲め」
「やだよ!」

 出るわけあるかと辛辣な反応と共にクロロは立ち上がる。そして、傷は塞いだから少しくらい付き合え、と言い残してさっさと騒ぎの渦中へ消えていった。その言い方ずるくない?仕方ないので追いかけるように「水かドデカミンください!」と声を張るとえげつない痛みが全身を貫いた。いてててて!くの字で身悶える私の元に水はない、と中から声が返ってくる。ドデカミンあるんかい。

 死ぬほどくだらない理由で開きかけた傷を摩っていると、風で流れた雲間から薄明かりが差して辺りを照らし、私はさっきまで眠っていた場所に見覚えのある上着が横たえてあるのに初めて気づいた。誰かの歌声は周りの野次もお構いなしにまだ続いている。あてなく見上げた月は高く、比類ない輝きでそこにあった。
 クロロが何を持って戻るのか考えながら、人生最悪の夜はことのほか美しく、ゆるやかに明けていく。




闇にまぎれて



190813