公国の空は澄んで見える。緯度が違うからかなあ。街の東の波止場には色とりどりの小さな三角旗が飾られて、スピーカーからヴィヴァルディの「春」が繰り返し流れている。私は日なたの階段に座り、白く巨大な観光船からタラップを降りてくる人々の晴れやかな顔を眺めていた。明日この国では大公の即位五十年を祝う式典が開かれる。クロロの目当てはこの時期だけ国立美術館に展示される公爵家の宝だ。下見にいくかと誘われたが固辞した。美術館て。まだ二週間も経っていないのである。傷開くわ。 留守番も気楽なもので、スムージー片手にぼんやりと空を眺め、たまに近くにくる犬なでたり猫さわったりしているだけで時間が過ぎてゆく。広場では学校が休みなのか子供達が音楽にあわせてキャッキャと走り回っており、こんなお祝いムードに沸く幸せな国で盗みを働くなんていくらなんでも不届きだ。クロロも猫さわりにくればよかったのに。 「平和だなあ」 「見かけはね」 独り言にいきなり最悪の相槌を打たれた。無視してスムージーをことさらでかい音立てて飲んでみる。いるんだよねこういう人、一自治体に一人くらい憩いの場的なところで話しかけてくるやばい人…―― 「じゃん、何してんの」 「イルミ………」 古い知人は自然な所作で隣に腰掛けると、狭いんだけどとかなんとか言って私を日陰の方に追いやった。おい。 「どこかで見た顔だと思った。久しぶり」 「いやほんと…まさかこんなとこで会うとは…ついてない…」 「なんか言った?」 「言ってません」 「噂で聞いたけどお前随分前にクビになったんだってね」 再会一発目の話題のチョイスがきつい。というか勤務先が雇用主ごと吹っ飛んだのだ。クロロが吹っ飛ばした。説明が面倒なのでまあそんな感じかなあとか適当に濁すと、イルミは俺に相談すれば仕事くらい探してやるのに、と恐ろしいことを言った。誰も受けない珍奇な依頼しか回してこない人のセリフじゃない。私をゴミ箱かなんかだと思っている節がある。せっかくフェードアウトに成功したのに。肩を落とす私の傍ら、丸まった猫が慰めなのかにゃあと鳴く。 「イルミは仕事で来てるの?」 「そ、式典とは関係ないけどね。親父も人使い荒くてさ、今日なんか依頼五件もハシゴだよ」 「イヤなハシゴだな…。相変わらず儲かってるのね」 「そっちはそれほどでもなさそうだね」 「余計なお世話だよ」 ディスられている間にスムージーもぬるくなってきた。よりによってイルミって。病み上がりに会いたくない人番付で堂々横綱を張る男だ。爽やかな気分もすっかり失せた私に、ハハハまあそうへそ曲げるなよとイルミは一ミリも表情を変えずに笑いかけた。どうやるのその顔? 「それはそうと、なんか覇気なくない?」 針の穴を通すように的確にイヤなとこ突いてくるな!背筋に冷や汗が伝う。なんとなくバレてはいるんだろうけどこの間まで腹にでかい穴が空いていたことをイルミに確信させたくはない。多分ロクなことにならない。荒れ狂った大型犬が私たちの間に飛び込んでくればいいのにと思いながら、私はつとめて快活っぽい笑顔を作りスムージーを元気に飲み干した。いてっ! 「全然!ちょっと立て込んでただけ!」 「無職なのに?」 「無職じゃないわ!必死に生きてるんだよ!」 「顔色悪いけど」 「それはイルミが日陰に追いやるからそう見えるだけで……とにかく大丈夫だから」 「ふーん」 聞いてんのか聞いてないのかわからないような感じで、イルミは何やらポケットをガサゴソして手のひらに収まる程の缶を取り出した。イヤな予感がする。めちゃくちゃ。 「じゃこれ飲む?」 「え、何それ」 「……………コーヒー」 「なにその間!いやだよ!私さっきまでスムージー飲んでたし」 「効くから。こっちのが」 「効くって何?!」 取り乱す私に驚いた猫が飛び上がって逃げていく。私を置いて逃げんといて!イルミは私の腕をガッチリホールドしたままラベルに何も書かれてない謎缶のプルタブを上げた。もしかして五件のハシゴ殺人って私も含まれてんの?!助けを求めて辺りを見回すが、皆それぞれにお喋りやら日向ぼっこに夢中で誰もこちらに目を留めない。白昼堂々犯罪が行われようとしているのに! 「待ってほんと勘弁して、私一体誰に恨みを……」 「恨み?ああ、バカだな。仕事でこんな間抜けな殺し方するわけないだろ。毒なんかじゃないって」 「流れから缶からバチバチに怪しいんだけど!」 「お前元気がなさそうだからさ、ほら、ほら」 「ちょっなんなのコレなんか生臭いんだけど!」 イルミは傍目には一口あげるよ的な自然なモーションで缶を押し付けてくる。力強っ!全身の危険センサーがこれアカンやつと爆音を上げている。誰か助けてくれ!!生臭っ。顔を右へ左へ避けながら視界にちらりと缶の中身が飛び込んだ。意外にコーヒーっぽい色、とほんの一瞬油断した隙だった。 ごくん、と喉が鳴って謎缶から謎リキッドが滑り落ちていく。やばい。イルミと目が合い、次の瞬間火の中に投げ込まれたかと思うほどの熱さと真っ白い光が炸裂して全身を包んだ。 事件だッ 200624 |