フェンスに囲われ轟音を立てるばかでかい機械の脇を突っ切って、ステンレスの階段を昇ると、そこは闇夜の只中だった。機体の胴に沿うように設置された整備用らしい外部通路。触れたら届きそうなほど近くに雲が漂っている。手摺りに寄りかかる私たちの間をぬるい夜風が吹き抜けた。 窓越しでは分からなかったが、飛行船は風に流されないようアイドリングしながら、目的の島からわずかに離れた場所に横付けされる形で浮かんでいた。遥か足下は隣接する一回り小さな島。どちらも絶壁の孤島で目を凝らす限り岸はない。ただ二島間の深い崖を繋ぐ吊り橋が、飛行船のヘッドライトに照らされている。 「なんかアクションゲームみたいですね」 身を乗り出すと、暗がりに何かが細く輝いた。 「ねえあれ、さっきのロープの人たちじゃないですか?」 「どれ?……わーホントだ。すごい人数」 「ほら、地面まで届きそうですよ。長っ」 「繋留用じゃないの?」 黙って聞いていたクロロが蜘蛛の糸だな、と冷ややかに評した。非常用通路から垂れ下がるロープから米粒程の影が地上へ続々と降りていく。そこそこの荷重がかかっている割に、用途なりの強度はあるのか切れる様子はない。パニックでやけくそなのかと思いきや案外―― 「"案外いい手じゃん"じゃないだろうな」 「う……」 クロロがクリティカルに水を差した。なぜわかる。 「試験の前情報で何を調べてたんだ」 「いや会長の顔と好きなおにぎりの具くらいしかわかんなくって……」 「本当に何を調べてたんだお前は」 「でも見たところあの作戦うまくいってそうでしょ」 「見かけはな。地獄から糸を伝った連中の行く先を知ってるか」 こわっ。突然示唆に富むのをやめてほしい。クロロはそれ以上説明せず、代わりにシャルナークがほら、と私の背後を指差した。嫌な予感が湧き上がった瞬間、風に乗ってごく小さく人の声が聞こえてくる。にわかに耳をすませてみて、それが何なのか気づいたとき心臓が凍りついた。 悲鳴だ。振り向くと遠く吊り橋の上が何やら只事でなく揺れている。なんだなんだ!不穏な空気に気づいていないのか、船内に待機していた受験生達はぞろぞろと列をなし、一方通行を下っては眩く照らされた吊り橋の方へと駆け出していく。「随分素直な奴らだな」皮肉っぽくクロロが述べた。 「あのライトは道を示すためじゃない、魔獣への餌場の合図だ」 「うげ……」 最悪だ。一瞬で眠気の残滓が吹っ飛んだ。 「航路から察するにここはガルシャ諸島の一部だろう。本来魔獣は棲息していない島で軍事演習地だったが、半年前に難破船から愛玩用の魔獣が十数匹流れ着いた」 「ペットがじゃれてるようには見えないんですけど…」 「愛玩用といっても殺しの道楽に供される筈だった。知能は高く、一度視界に入ったら死ぬまで追ってくる。荷主が回収を諦めた代物だ」 「これ試験じゃなくて拷問の間違いでは?」 「道を選べば問題はない。あの森に群生している植物は、ヒトには無害だが魔獣に毒性が強い。だからああやって岸壁で獲物を襲うしかないのさ」 三次の試験官はいい性格してるねーと軽い口調でシャルナークが後をついだ。魔獣の巣食う崖を避けて島へ渡り、森に入る。吊り橋はブラフってこと?覗き込んだ手摺りの真下、島間を隔てる崖は空も海もなく黒くぽっかりと開いた隙間があるのみだ。試験である以上正規ルートは用意されていると思いたいが、これ袋小路じゃない? クロロは平時と全く変わらないトーンで風があるなと呟いてこちらを見やった。ちょっとは慌てればいいのに。 「どうだ、他に手は浮かんだか?」 「んー……もっかい寝る」 「却下だ」 「じゃあとりあえず地上に降りて、爆裂長い棒で幅跳びする」 シャルナークが爆裂長い棒ってなに?と目を細めている。こっちが聞きたいよ。クロロはそんな棒はない、と痛烈に私のなけなしの回答をはたき落とすと視線を斜め上へ引き上げた。つられて同じ方を見るが、星ひとつ見えない夜空が広がっているだけだった。ただ機体の胴から真っすぐに伸びるダークブルーのウイングを除いて。 「南向きか。適度な追い風だ」 「だね。気流も安定してるし」 まさか。 「シャル、お前は?」 「さっき軍人崩れの奴から剥いできた」 にこりと笑ってシャルナークが小脇に抱えていた迷彩柄のザックのようなものを掲げた。また誰かの悲鳴が遠くで轟いた。切り立った崖の奥、黒い森の影が不気味に揺れている。 「………軍用パラシュートですか?」 「そ。何度か使ったことあるし、高度と距離もイイ感じ。これ一つしかなかったんだけど…」 「構わない、先に行け。適当に手を打つ」 「りょーかい」 適当てなんだ。微妙に引っかかる指示にシャルナークは二つ返事で身を翻し、機体に固定された梯子へひらりと飛び移った。「また後でね」買い出しにでも行くようなノリで片手を上げられ、つい振り返してしまう。そのまま梯子を足掛かりにウイングの上へ駆け上がると、ほんの数秒もしない内に彼は漆黒の空へ溶けていった。うそでしょ。 前途茫洋として飛行船揚せり――。きわめてカジュアルにシャルナークが行ってしまい、殆どの受験生が蜘蛛の糸を伝って地獄へ吸い寄せられた今、上空三千フィートに私たちだけが残された。階下の機械室では冷却器が循環し、足場の薄いスチール材がエンジン駆動に合わせて微かに震えている。ゆるやかな風が吹き、どこか地上で知らない生き物が声高くいなないた。 「……行っちゃった」 「行ったな」 どうでもいい独り言をクロロが引き取った。二人見つめる先、彼の姿は肉眼で捉えられない。そうはいっても多分シャルナークは大丈夫だ。付き合いは短いが、一か八かという無茶をする性質の人ではないと思う。私たちは暗闇にその内起こる変化を待って、あまり頑丈そうでない手摺りに体を預けていた。 「静かになりましたね」 「下の連中があらかた喰われたんだろう」 事も無げにクロロが言った。聞かなきゃよかった。後悔する私の眼下、薄墨を引いたような雲がゆっくりと流れていく。試験開始の合図から半刻と経っていない。今ほどの惨禍が幻であったかのように島影は穏やかな波間に佇む。五感に触れるもの全てが熾烈なハンター試験であるはずが、夜の静けさに次第に心が凪いでくる。クロロの打つ適当な手とはなんなのか考えていると、暖かい紅茶でも飲みたい気分になってきた。 「ねえクロロ」 「なんだ」 「あの夜の、……………」 口から滑り出た言葉に驚いて、すぐにやめた。いやいや。いやいや、違う。このあと私たちどーします?と言おうとしたんだけど、なんでだ。「あの夜の?」と視線を遠くに投げたままクロロが尋ねた。なんて続けるか考えあぐねて深く息を吸い込む。深呼吸で頭が冴えるかと思ったが、普段ならぜったい口にしないだろう言葉がふっと浮かんだ。 言ってみようと思った。 「あの日、……私が死にかけた夜のこと」 「ああ」 「フェイタンが傷を塞いでくれようとしたの、クロロが止めたんですよね。ほとんど何にも見えてなかったけど。でもあの時たしかに、なんでって思ったこと覚えてる」 「さあな。そうだったか?」 「うん。………きれいに治そうとしてくれたでしょ」 「………」 「ありがとう」 「………………」 クロロは暫く沈黙していたが、やがて小さく、そういうわけじゃない、と零した。 「残ったら困ると思っただけだ。俺も、……お前も」 返すべき答えを持たず、今度は私が口を噤んだ。いつもながら言葉少なだ。でも、こればかりはクロロの心情を理解できてしまった。きっと私も同じだからだ。糸で引かれるように動いた目線の先で、月明かりを受けて彼のピアスが蒼く透き通る。私たちは二度と同じ景色に立つことはないだろう。だけど今交わした言葉は、朝になったら雲と一緒にどこかへ行ってしまう気がする。そうであってほしいと願った。いつか終わりが来た時、思い出せないくらい遠くへ。 旅団の皆にも色々助けられちゃったなあ。ぼやくとクロロが茶化すようにこちらを窺った。 「あれほど怯えてた奴のセリフとは思えないな」 「怖いでしょ。爪はがされそうになるし、強いし、冗談キツいし」 「仕方ない。そういう奴らだ」 「でも段々好きになっちゃった。旅団のこと」 「……そうか。あいつらはこの試験、お前のリタイアに賭けてるが」 「!?」 フィンクスだけじゃなかったのかよ!しかも今まさにそうなりかけてるし。結果的に手堅いベットなのか。手摺りに額をつけ伏せる私に、クロロはふっと笑う。 「そう落ち込むな。これまでの試験に較べれば悪くない」 「いや、抜群に状況悪いでしょ」 「そうか?」 長い指が遠く岬を示す。 「特別な夜明けが拝めるだろう?」 顔を上げたと同時に、飛行船の外へ出てから初めてまともにクロロと目があった。挑発的で、自信に満ちて。三時間後あの場所で朝陽を臨んでいることを微塵も疑っていない。そのくせこの人――…たまに理屈じゃない物言いをするのだ。 そのとき遥か下界の暗闇に小さな光が三度瞬いた。シャルナークからだ。OKのサイン。心臓が強く脈打ち始め、予感めいた高揚が体の奥からせり上がった。 「ここからは二択だ。ライセンスはシャルに任せる」 ――もしくは。 クロロの纏うオーラが揺らいだ。 「新しい能力、試してここから飛ぶ」 一瞬耳を疑った。冗談みたいな選択肢だ。実際、たちの悪い冗談だと思えたかもしれない。クロロの発言でなければ。たった一枚の薄い金属板を隔てた足下には虚空が広がっている。向かい合ったクロロは試すように私を見据えた。 「信じられないならやめるか?」 投げかけた言葉と裏腹に差し出された掌は、半ば予定調和じみた確かさをもって私に向けられている。生身で飛行船から飛び降りるなんて。寝起きになんて二択だよ、と思った。その上あんまりな話だけど、実質二択ですらないのだ。 「………やめない」 握り返した手は意外なほど温かかった。偶然が結んだ理不尽の糸をたぐって、私たちずいぶん遠くまできてしまった。振り回されるばかりだし危険な目にしか遭ってないし、でも、悔しいけど私は、ゆく先の暗闇よりも確かに感じられる。この人が拓く世界を。白み始めた灯台から眺める東の水平線を。 「信じる!!」 「上出来だ」 繋いだ手がぐいと引かれ、体は舞うように宙へ浮き上がった。バランスを取ろうと足が空を切り、前のめりに着地する。さっきよりも人ふたり分だけ高いウイングの上は、それでもまるで世界の天辺にいるような気分だ。滑走路のように敷かれたダークブルーの道。その向こうは闇。遮るものはない。クロロのもう片方の手に赤い背表紙の本が具現化され、瞬間、私たちは地を蹴った。 景色が変わる。なにやってんだろう、ほんと正気の沙汰じゃない。足を動かすたびにウイングがひどく揺れて、転ばないように走るのがやっとだ。駆け出した背中に追い風を受けて、心臓が痛いほどばくばくして、ほんの少し先で奈落が口を開けているっていうのになぜかクロロが現れた夜を思い出した。ついこの間なのに忘れてた。警護していた屋敷にクロロが侵入して、あの時、私は死ぬのかって思ったんだ。 でもここで生きてる。 「……賭けは俺の一人勝ちだな」 「なんか言いました?」 「いいや、何も。なあ、、」 らしくない大きな声でクロロが私を呼んだ。笑っている。でも風がうるさくて、自分の笑い声と混ざって、走りながら息が乱れて何がなんだかわからない。きっと高所で判断力がバカになった錯覚のせいだ――ペンキで塗りつぶしたような闇夜の下で――私は、振り向いたクロロの深い瞳に、世界中の星を盗んで閉じ籠めたような烈しい光を見た。 「どうせイカレた浮世だ、死ぬまで楽しもう」 引かれるままに虚空へ踏み出した。導くクロロがあまりに堂々としているせいかほんの一瞬、暗闇の先に道がある気さえした。がくんと体が傾いて地平が回転する。念の発動を気にするより先に、風を切る轟音と共にすべての思考を振り切る速さで、私たちは真っ逆さまに落ちていく。この空の底。夜の向こうへ。 夜の行方 200916 |