店の表で鳥の鳴き声がきこえた。見ると窓の向こう、路地の隅の陽だまりを雀が数羽歩いている。奥の座敷で横になっていたじいさんがもうそんな時間か、と呟く。きまった時間にここへくるらしい。

 手に取っていた本を棚に戻し、背表紙の字を横へ横へと追っていく。家庭料理本の隣に内戦ルポが並んでいた。売る気があるのか。いつ来ても俺の他に客をみた試しがない。それでも置かれた古書の節操なさや、店主がむやみに声を掛けてこないところが気に入っていた。長居するのにこれほど優れた店はない。ここでは賊でなく、ただの客であることにしていた。

 は「除念の手がかり絶対見つけます」とライセンスを握りしめて豪語し、来る途中にあったネットカフェに颯爽と消えていった。今頃はハンターサイトを片っ端から巡回しているだろう。が、全くあてにしていない。面白ゴシップを発掘して帰ってくるのが関の山だ。あとで成果はあったか聞いてやろう。誓ってない。

 始まりの夜も、取るに足らない仕事の筈だった。よくある資産家の屋敷。護衛などいたところで念を覚え立ての素人ばかり。当然俺一人で事足りる。目的の部屋の前にいたのはと術者の男。立ち塞がるなら殺しは厭わなかった。どちらから始末するか逡巡した一瞬、男が念を発動した。解除要件は都度設定する任意のキーワードだというが、あの今際に浮かぶ言葉なんて限られているはずだ。――もう少しで解けそうなんだが。
 滑らせた指が一冊の厚い本に行き当たる。背表紙には何も書かれていなかったが、ふいに興味を惹かれて棚から引き出した。褪せた深緑の装丁。

「……目録か」

 独り言に応えるように店の奥で猫がひと鳴きした。表紙をめくると長い間誰も触れていないのか中の状態がよく、写真は鮮やかなままだ。最初の頁ですぐに気づいた。いつか訪れた公国の美術館の所蔵だ。


 汐の香りがする街だった。パレードの夜。
楽隊の奏でる音色が、遠い夜凪の彼方へ響いていた。長く街道に並ぶ橙の灯りが、フィナーレを飾る花火が。その往く先を見つめる幾千という眼に映っては瞬き、消えていく様が、美しかった。とても。



「この本、いくらだ」
「んん、ああ、それな……。じゃあ、七千ジェニー」

 今値段決めただろ。カウンターに金を置いたとき、上着の内側で携帯が震えた。画面にはの名。またろくでもない用事じゃないだろうな、と訝しんでいる間に着信はすぐ切れた。イルミからの電話を思い出す。
 一応事情は聞いたが、コーヒーを飲んで精孔が開いただとかわけの分からないことを言っていた。なぜそうなる。ただあのとき、あいつにつられて笑える気分になったのが自分でも想定外だった。不自由にも慣れるものだ。


 随分な厄介ごとを抱え込んだと思っていた。だがやってみれば案外、向かう場所も望む物も、伸ばせば手が届く。悲観する間もなく除念はできるだろうが、まあしばらく、

「このままでもいいか」


 店の出入り口でにわかに立ち止まる。いや、今のは無しだ。完全に。ノーカウントにしろよ。
 誰にともなく念押しして、重い木の扉を押し開け外へ出た。

 そうして空の色を見た瞬間、気まぐれに、予定より早く戻ろうと思った。
 コーヒーでも淹れてあの固いソファに座り、この本の続きを捲って、盗み損なった美術品について考えよう。それから――……十中八九ないだろうが、もし見たいと言ったらあいつにもどんなものかを見せてやろう。公国の宝も未だに少し惜しまれるほどには素晴らしかったんだ。ただあのときは、異国の可惜夜へ連れ出したかっただけで。



それだけ


210627