車を十キロほど南へ走らせた郊外の海岸通りにぽつんとそのダイナーはあった。周りは平坦な土地が広がるばかりで向こうの景色も見渡せる。歩道に沿った石積みの防波堤に座り、暗い海を眺めながらクロロを待つ。着いた頃に闇一色だった空は薄紫に染まりつつあった。 店が開くまで、私たちは車の中で少しだけ話をした。シャルナークが旅団のスレを掻き回してる画面を見せた時の、やっぱりなみたいな白けた反応が納得いかない。やってんのはあんたんとこの団員なんですけど。どうやら持ち帰る情報はせいぜいそんなもんだと思っていたらしい。 クロロは古書店で買ったという美術品の目録をめくっていた。どこのとも言及はなかったが、紙の上を滑る指が名残惜しそうで察してしまった。公国のお宝、欲しかったんだ。でも、あの晩。パレードからの帰路で一度だけクロロが振り返ったのを覚えている。楽隊の去った方。金管の高らかな音色が遠ざかる灯りの道を、何も言わずに。 背後にきこえた足音が思考を中断する。いつの間にか傍らに並び立ったクロロが、湯気の立つ紙のカップを片方差し出した。礼を言い一口飲んでみる。 「おいしい……。うちのよりかなり」 「比較そのものがナンセンスだろ。あれは贋作だ」 「コーヒーの贋作て何?」 「俺が聞きたい」 ここぞとばかりに悪口ねじ込んできたクロロは、浜辺に背を向けて防波堤に凭れ、静かにコーヒー(真作)を飲んでいる。こいつ最後だと思ってめちゃくちゃ言ってるな。 ゆく車はなく、お互いの呼吸すら聞こえるほどにしんとしている。たった今、ここからどこかへ向かうのは私たちだけだ。またカップに口をつけた時、空と海の境界から微かに光が差してきた。昨日がどうあれ、ここで終わる。隣にいる理由はもうないから。 「クロロはこの後どうするんですか?」 こちらを一瞥し、クロロは口元に手をやる。 「差し当たって白紙だが……。一度ホームへ戻るか。道中団員への説明でもでっち上げながらな」 「流星街へ?」 「ああ。は」 「突然すぎて何にも考えてなかったですけど……、ハンターライセンス使って愉快な仕事でも探そうかな」 「随分長いバカンスだったな」 「人の職場ぶっ壊したの誰ですか?」 「いずれ移ろい壊れるものだ」 ポエジーに言うな。でも突っ込む気も起こらないほど澄んだ空気が清々しい。もう夜明けかと呟いてクロロが飲み終えたカップを潰した。適当に投げられたそれは長い長い弧を描いてダイナーの前のスチールのゴミ箱をがらんと揺らす。私が飲みかけのコーヒーを傍らに置いて向き直ると、視線が交差した。 「乗っていくか?」 考える前に首を横に振る。多分降りるべき場所がわからなくなる。クロロは眉一つ動かさず、そうかとどっちでもよさそうに相槌を打った。一応聞いてみただけらしい。なら、と頷いてさっさと身を翻す。 「俺は行く。じゃあな」 「あ、はいそれじゃ……いや歩くの早!」 もう食い気味に行ってるじゃん。返事をする間もなく、コートのポケットに両手を突っ込んで車の方へとんでもない速度で歩き去っていく。切り替え早!余韻ゼロか?目を見張るあっさり具合だが、クロロという男はそんなもんといえばそんなものだった。防波堤から飛び降りて歩道に突っ立ったまま、なんだか締まりのない別れにちょっと笑えてしまう。 そのときだった。不意に、後ろ姿が道の半ばで立ち止まる。忘れ物に気づいたみたいな仕草だった。怪訝に思って近づくとあちらもゆっくりと歩き寄ってくる。すました顔を崩して、目を凝らさなければ気づかないほどわずかに眉を顰めて。 「クロロ?」 どうしたんですかと尋ねようとした瞬間、伸びてきた片腕が私の背を掴んでぐいと自分の方へ引き寄せた。「ちょっと、」そのままクロロの胸に顔から突っ込む。 心臓が止まるかと思った。 「…………」 「…………」 何も言わないまま永遠かと思うほど長い時間が流れていく。そのままの体制でお互い身じろぎもせず、めちゃくちゃな間があった後、クロロが一言、 「………なるべく死ぬなよ」 ――その一瞬。 呼吸を忘れた。波の音がする。 「どうして?」 口をついて出た言葉に自分で驚いた。いかにも虚をつかれたという声。こんな場面で聞き返すか普通。分かってるんだけど、そうせずにはいられなかった。だって。死ぬなだなんて。そんなことを言うはずはない。念は解けてるのに。 問いのあと程なく、ぱっと手が離された。「さあな、俺にもわからない」零したクロロの瞳はいつも通りに深い夜の色をして、その視線は所在なく宙を漂う。信じ難いがこの人なりに困っている。うそでしょ、と思った。なにもかも。固まっている私に対峙してクロロはふーっと長い息を吐いた。 「理由を問われるとは思いもしなかった」 いや厳密には違う、問われてから初めてそこに思い至った。だが、そうだな。理由か。――ゆっくりと瞬きを繰り返し、整理されていく断片的な言葉。その一つ一つが、私たちの歪な繋がりに内包されていた、形のないものをほどいていくように思われた。 「……いつかの」 「……」 「お前の言葉を借りると、、お前が呆気なくこの世から消えるのは、何か違うんだろうな」 ………。次に答えに窮するのはこちらだった。戸惑いだけじゃない、なにか得体の知れない大きな感情で唇の端が震えている。たしかに私の言葉だ。この人が易々と誰かに傷つけられるのは違うと思った、でも。覚えてるのか。そして言うのか。私の目覚めを待っていた月高い晩と同じに穏やかな息遣いで。感覚的で理解しがたいんじゃなかったの。立場が逆転したからかクロロは意地悪な笑みを浮かべ、「不満か?」と目を細める。 「不満っていうか、もういきなりなんだよっていうか……」 「言わせたのはお前だ」 その物言いにますますウッとなって唇を引き結んでしまった。なんなんだこの人。 「私がどこか知らないところで消えるのは、クロロにとって不調和なんですか」 「……」 「つまり悲しいってこと?」 「……。別に」 「……そっか」 「論理の飛躍だ。それとも、あの日の意図はそうだったのか?」 「いーーや、別に。私もただクロロがあっさり刺されるのは違うなって思っただけです」 「フッ、そうだろうな」 明るんだ東の空を背にクロロが表情を緩める。確信めいたものが、透き通った水が満ちていくように全身を包んでいく。この上ない曖昧な理屈だけど、でも誰かの存在を願うには充分なんだ。あのときクロロに向いた刃の前へ飛び出した自分には、それで充分だった。 「クロロ、」 一歩進み出て腕を伸ばす。ためらいよりも、そうする気持ちが優っていた。そこにいる人の温度はさっきよりもずっと暖かく感じられる。いつかこんな風にクロロを抱きしめることを始まりの夜に想像できただろうか? 返事を求めているわけじゃないって知ってる。この人から渡されたものは命令でも約束でもないし、私だって死にたくなんてない。だけどこの先のことはわからない。 ただ、 「私さっき言われたこと、思い出すと思います。この先多分、なんでもない時や、死にそうになった時に」 「……………ああ」 クロロの両腕が柔らかく私を抱き返した。お互いにとって何者でもない。そんな人にどうやって触れたらいいんだろう。影がかろうじて重なるくらいの不思議な距離がぎこちない他人の、私たちの姿だ。だとしても、そこにいる相手の形と触れた先の熱はたしかめられる。ずっと覚えていられる。 わずかに頭を垂れ、クロロが私の肩に額を寄せた。癖のある横髪が頬を掠める。私も同じように胸元に顔を埋め、瞼を閉じた。 一刹那の後に、影が離れる。 「さよなら」 クロロの去った海岸通は自分だけの影が細く伸びている。歩き始めた私の真横を、車が次々にすごい速さでゆき過ぎては小さくなっていった。互いの居場所も知らないままに私たちは明日を迎える。次の日も、また次の日も。でも調和した世界の片隅で、互いにそこにいる。海辺には飛び立つ水鳥の巻き上げた飛沫が、朝の陽を受けてきらきら光った。さよなら。 ふれるまで幻 211218 |