ホテルウォルコットのラウンジは、洗練されたジャズの音色に包まれていた。まだ19時を回ったところなので、さして広くない店内に客はまばらだ。着慣れないフォーマルワンピースをさっさと脱ぐことばかり考えながら、私は3000ジェニーもするミックスナッツをひたすら貪っている。隣に掛けるクロロがグラスの氷を揺らした。

「食い過ぎだ」
「まあ、せっかくなんで」
「お前何しにきたんだ」

 まあせっかくなんでと繰り返してミックスナッツの中でもひときわ硬い手合いの豆を奥歯で思い切り噛み潰す。クロロは口を濡らすほど僅かにウイスキーグラスを傾け、思ってもないくせに、色気のない夜だと嘆いてみせた。色気の出る関係ではないので、それは咎なきことだ。構わず食べ進めていると白髭を蓄えたマスターが静かに現れ、私たちの間にそっと次なるナッツ盛りが置かれた。

「ミックスナッツです」
「もうここにあるんだが」
「あ、私です」
「お前ほんとに何しにきたんだ」

 クロロはすました顔を崩していよいよ怪訝に眉を顰める。それだけでなく数席を挟んだ向こうから似たような種類の視線がビシビシ突き刺さるのを感じた。ただでさえおっかないくせに嘘みたいなフォーマルスーツで固めたフィンクスが、パクノダの隣でえげつない睨みを利かせている。他人のフリしろって言ったのどっちだ。

「ねえクロロ、めっちゃ見られてるんですけど……」
「だろうな」
「豆を食べてるだけなのに」
「豆を食ってるからだ」

 それでもフィンクスよりよっぽど自然だよ、と言いかけたがそれ以上はもうクロロの耳に入っていないようだった。黒い瞳の奥がすっと冷えていく。二回目だが分かる。仕事モードだ。不穏な空気。フィンクスがカウンターの上の灰皿を引き寄せて煙草に火を点けると、横目に離席を促した。
 え、もう行くの?二皿目の豆をつまみながら視線の先を追うと、どう見てもカタギじゃない黒服の男達が数人店奥の通路へ入っていく。いかにも近づくなという威圧感を放ちながら。

、勝算は?」
「んー、7割……いや、5割くらい」
「賭けるか。今夜解除できるかどうか」
「それ成立します?」
「俺は“できない”に賭ける」
「アテにしてねーのかよ!」
「負けた方が頼みを一つ聞いてやるのはどうだ」

 ……。今度は私が眉を顰める番だった。それ解除できなかったら私がパシられて、解除できたらクロロに命令する間も無くサヨナラで、こっちにメリットなくない?訝しむ私を無視してクロロは金を置いて席を立つ。

 私たちが念解除の手掛かりとして見出したのは、過去同じ能力をかけられた裏社会の連中だった。元は交渉用の能力だ。かつてのターゲットはほとんど生きている。歴代のカモ達の中で唯一足取りを掴めたそのマフィアは、カウンター席の左奥、通路の先のVIPルームでまさに商談の真っ最中だ。








 それからは映画のワンシーンでも見ているようだった。銃を持った屈強な筋者達は一度の発砲も許されずにフィンクスとクロロに一瞬で制圧され、パクノダが背後から標的の男を捉えて地に伏せた。相手がなんだろうと御構いなしだ。流石に堂に入った振る舞いにビビりつつ、遅れて入った私は部屋の隅っこで懐かしい顔を眺めて気まずい回想に浸る。鼻に傷のある禿頭の男は突然の押し入り強盗に青褪めたまま動かない。

 私にこんな念をかけた故同僚はかつて強請り屋だった。羽振りのいい裏社会の連中に目をつけ、敵対勢力ごと命を握るというコスパがいいのか悪いのかわからない方法で生計を立てていた。このマフィアもご多分に漏れず念の解除と引き換えに法外な金を巻き上げられたが、他のターゲットとは違い血の滲むような執念で術者を追跡しその尻尾を掴んだ。それが運のツキだ。マフィアに吊るし上げられていたそいつを助けた縁が回り回って私はこうなり、私に顔を覚えられたためにマフィアは旅団にボコられる羽目になったわけだ。

 クロロはパクノダに締め上げられている男の傍らに屈み、襟首を掴み上げた。

、こいつで間違い無いな」
「間違い無いです」
「そうか」

 ガン、と思いきり男の頭を床に叩きつけると、クロロは気絶したマフィア共を踏みつけながら手近なソファへ腰を据える。直ぐ済ませよう、という呟きのあまりの冷徹な響きに男が震え上がるのがわかった。気持ちは察する。めちゃくちゃおっかない。

「三年前、お前はある男に一億脅し取られた」
「……」
「妙な力を使う男だ。そいつの提示したルールを破ると死ぬ」
「覚えてねェな」
「嘘はいけないわ」

 パクノダの言葉で、男の額に脂汗が滲む。クロロは足下に落ちていた銃を拾い上げ、くるくると手先で弄んだ。「痛い目に遭わせたいわけじゃない――が」銃口を別のマフィアへ向けクロロは躊躇なく引き金を引く。パン、と耳を擘くような銃声と共に壁に血が飛び散った。「望むなら別だ」
そうして物言わぬ屍にもう一発打ち込むと、返り血のついたスーツを脱いで銃ごと血の海へ投げ捨てる。味方ながらこれには肝が冷えた。こっっっわ。

「質問は一つ。解除の条件は何だ」
「………キーワードだ。奴の指定した言葉で解除されるんだよ」
「言え」

 男はフーッと長い息を吐いたがそれきり口を噤んだままだった。数秒の沈黙の後、パクノダがダメねと肩を竦め男から離れる。

「んだよパク、記憶は読めたんだろ」
「そいつに聞いてみなさい」
「オラ、さっさと吐け」

 踞る男を軽く蹴飛ばし、フィンクスが紫煙を吐き出した。ガラわるっ。悪いことは言わないから正直に吐くべきだ。同情に満ちた眼で見つめていると男もさすがに空気を読んだのか、蚊の鳴くような声で言った。

「スベスベマンジュウガニ」

 なんて?

「あのーすいませんもう一回いいですか?」
「スベスベマンジュウガニ…」
「オイコラ何言ってんだ!」

 背中を踏みつけるフィンクスに「無駄よ、本当だから」とパクノダが釘を差した。マジか。瞬間、どちらからともなくクロロと目を合わせる。革張りのソファに深く腰掛けて眉一つ動かさない。が、先に口を開いたのはあちらだった。


「スベスベマンジュウガニ」


 ええ……。クロロはそれっきりずっと視線を外さない。再びマジか、と思いつつ私はやむなくスベスベマンジュウガニ、と返した。沈黙。狭い部屋の中、何一つ変化は起こらない。剣呑な空気を断ち切るようにスベ、とクロロが繰り返してこちらを見る。

「スベ」
「マンジュウ」
「ガニ」
「………」
「………」
「アホか!!!」
「いたっ!!!!」

 私を殴るのは違くない?!!!フィンクスに不服を申し立てる私を無視して、クロロはすっと立ち上がる。

「行くぞ。これ以上聞くことはない」
「ッチ、無駄足かよ」
「術者が任意に言葉を設定することは分かった」
「そんなもん特定できねーだろ」
「ダメ元で除念師を探した方がいいんじゃないかしら」

 解除について絶望的なことを口々に言い合う三人の後ろを、頭をさすりながら付いて行く。ちょっとは手加減しろ、と思いつつ心中に一抹の不安が過る。ずっとこのままだったらどうするのだろう。フィンクスが振り返り、腕を伸ばすとぐいと私の首根っこをつかまえた。ヒイ!そのまま持ち上げられて宙ぶらりんになる私に、パクノダが旅団の男って…と嘆息している。

「辛気臭い顔してんじゃねーよ!意地でも他の手がかり思い出せ!」
「いたいいたい!もうさっきから雑!」
「なんだよあんだけビビってたくせに、言うようになったじゃねーか、なあ団長」
「いい傾向だ」

 目の前でレディが足をばたつかせているのにクロロはどこ吹く風で携帯を操作している。嫌な予感がした。
「賭けはの負けだな」
 覗き込んだ画面に「珍味 最悪」の検索結果が表示されている。おいちょっと待て!


海の星



190615