「浮かない顔してるね」

 そうだろうか。思いがけない指摘で気がそれた瞬間、向かいに座る男は涼しい顔でチーズケーキを掬い取ってぱくりと食べた。いやそれ私の。唖然とする私に、男は何がおかしいのかクククと高い声で笑い、あんまり見ないでくれよ♣と言ってのける。意味不明だ。覗き込んだコーヒーカップには取り立てて変わりのない、いつも通りの自分が映っていた。強いていえば狐につままれたようではあるけど。

「いつもと変わんない気がします」
「じゃあいつもそんな顔なんだ?」
「あれ、あなた煽ってます?」
「あなたじゃなくてヒ・ソ・カ」

 腹たつ〜〜〜!!!は・ら・た・つ〜〜〜!!しかしここで席を立っては女が廃る。私の方が先に座ってたんだし。とかごちゃごちゃ考えている内に、ヒソカはこれオイシイねと述べさっきより大きめの一口を奪い去った。

「原因、当ててあげようか?連れの男とケンカしただろ♦」
「してないです」

 そして連れって誰、と抗弁しかけて何かに引っかかり、束の間言い淀む。ヒソカはほら図星とでも言いたげに勝ち誇った顔で口角を引き上げた。さっき会ったばっかですよね私たち、と話題を逸らしたものの、出会いに時間は関係ないよ♠とまたよく分からない力技でねじ伏せられる。なんだこの人。プロレスに興じる私たちの真横、休日の大混雑で疲弊した顔の店員が通りしなに空いた皿を下げていった。全部食べられてるし。

 一体なにが楽しくてこんな変人と相席なんか。コーヒーをやけくそで流し込んで、あれもこれもそれも全部クロロのせいにした。そう。クロロが。女と歩いていたのだった。

 私用と言われ立ち寄ったこの街は世界で指折りのリゾート地だ。日中別行動をこれ幸いに浮かれて過ごした逗留四日目、午後一時。街の広場でクロロとばったり出くわした。隣には栗色の巻き毛。ちょっと気が強そうな綺麗な女の人。何が最悪って、私は浮かれるあまり地元の子どもから買った吹き戻しのおもちゃをピロピロ吹いたり戻したりしながら歩いていたのだった。

「浮かれすぎじゃない?」
「まあそれはリゾート地なんで仕方ないとして」

 何が?と首を傾げるヒソカを無視して私はこの話の落ちが何なのか考えてみたが、思いつかなかった。あのとき。クロロが口を開きなにごとかを言おうとした、瞬間私は踵を返し脱兎のごとく駆け出した。脇目も振らず人混みを掻き分け、当然追ってくる気配などなく、にもかかわらずなんだか急かされるように足を動かし続けた。今思えばあの露骨な逃げもどうなのか。挙動不審すぎるし残された側も気まずいはずだ。デートの最中に知り合いにとられたくない行動の上位三つには入ると思う。その点申し訳ない。一体あれはなんだったのだろう。
 そうして逃げ込んだ裏路地のカフェ、時間を潰す私の前にこの男が現れ、甚だ強引に向かいの席を陣取った。二時間前のことだった。

「さっきまでの君、巣を追われた動物みたいだったよね♣」
 頬杖をついてヒソカは切れ長の目を眇める。不本意な言葉が飛び出して私も苦い顔になった。

「やめてくださいよ、あんな素っ頓狂な人がまるでまともな人みたいに歩いててたまげただけなのに」
「状況からすると素っ頓狂は君の方じゃない?」
「いや総合的に絶対あっちです」
「あ、そう♦」
「あなた興味ないでしょ」

 そんなことないよお、と笑う目の奥がぎらぎらして背筋が凍った。赤い舌で唇を舐め、ヒソカはやおら熱っぽく息を吐く。これはまずい。この男アカン奴だ。石のように固まる私に白い腕が伸びてきて、厭なオーラが纏わり付く。

「君を見た時すっごくオイシそうなものが近くにある気がしたんだよねェ〜〜」
「……」
「こうしてお喋りしてると、君自身に毒があるようには見えないんだけど…、上手く隠してるのかな…?」

 殺される!!!!ヒソカの手が頬に触れようかという瞬間、膠着した空気を切り裂くように冷たい電子音が鳴り響いた。電話だ。

 ヒソカは面食らった顔をして手を引っ込め、含みのある笑みを浮かべて電話をとるよう促した。机の下で見た待ち受け画面に、クロロの名が表示されている。素直になんで、と思った。まだ日は高いのに。受話を押せないまま呼び出し音は鳴り続けている。いっとき躊躇しまた顔を上げるとヒソカの姿は煙のように消えていた。そして伝票の代わりに、赤いトランプのカードが一枚。










「なんですかその車」
 それが私の第一声だった。現れたクロロは冗談みたいに真っ青の、見るからに高そうな車に乗っていた。「盗ってきた」答えてクロロは得意げに手招く。往来でそんなこと言うんじゃないよ!!それにしても滲み出る胡散臭さ、オープンカーが似合わなすぎる。幸い行き交う人々は誰も彼も自分のバカンスに夢中で、クロロの問題発言を聞きとがめる者はない。足早に助手席に乗り込みドアを閉めた瞬間、クロロは思い切りアクセルを踏んだ。

 まるで行き先を知っているかのように迷いなく車は滑り出し、あっという間に市中の煉瓦道を走り抜けていく。

、」
「はい?」
「さっきのあれは何だ、笑いを堪えるのに必死だったぞ」
「売ってたらそりゃ吹くでしょ」
「人混みでいきなりお前がピーヒャラ出てきた俺の気持ちを考えろ」
「人を陽気なバカみたいに言わないでください」
「あれで陽気なバカ以外の何なんだ」

 片手でハンドルを操りながら、クロロは華やぐメインストリートには目もくれない。下ろした前髪が風で乱れていつもより幼く見える。多分それだけではなくて、ちょっぴりしか違わないが、クロロはどことなく機嫌がよさそうだった。

「いいことでもあったんですか?」
 茶化すとクロロはこちらを一瞥してふっと笑った。

「なんだ、妬いてるのか」
「冗談きついですって。ないないない」
「どうだか」
「それだけはない、なんなら私も男とコーヒー飲んでましたー」
「ほう、どんな奴だ」
「知らん変態ですゥー」
「お前よくそれで張り合おうとしたな」

 車がクレープ屋の行列の横を通り抜け、甘いお菓子の香りが鼻先を掠めて遠ざかっていく。名残惜しく窓枠に寄りかかっていると、白いワゴンを引く花売りの女性とすれ違いざま目が合った。いい街だったのになあと心中呟き深くシートに身を沈める。
 どこへ向かっているのかわからないが市外へ出ているのは明らかだった。たちまち景色は緑に変わり、だだっ広い野のど真ん中、どこまで伸びているのか先の見えないハイウェイが姿を見せた。

「面白い能力を盗んだ」
「え?」
 風の音がうるさい。聞き返すとクロロは体ごとこちらに身を乗り出した。ちょっと危ないんだけど!

「あの女の念だ。なんだと思う?」
「念?」
「あとで見せてやろう。変化系だ。空気中の水分を一瞬で熱湯に変える」
「よくわかんないけど、それでどうするんですか?」
「どこでもコーヒーが飲めるぞ」

 あとラーメンも食べ放題だ、とクロロは付け加えた。食べ放題ではなくない?太陽に熱されたアスファルトの上、遠い景色が蜃気楼のように揺らめいている。行き交う車はなくただ一台の走行音だけが響く途、すごい速さで路傍の緑が迫っては流れていった。隣でクロロは手から湯が出るのがシンプルに面白いとかなんとか真面目な顔して続けている。陽気なバカはあんただ。

「そういうわけであの街での用事は済んだが」
「どこ行くか決めてないんですか?」
「そういうことだ」

 はあ〜〜〜〜〜〜。ばかでかい息と共に私はずるずるとシートの下の方へ崩れ落ちる。なんなんだ。その五文字だけがド派手なネオンみたいに点滅を繰り返したあとぱっと消えていった。脱力が過ぎて私はずり落ちた場所からしばらく身じろぎもできなかったが、ハイウェイの乾いた風を吸い込んで、空っぽの脳みそに任せているとふと、海がいい、と口をついて出た。海?とクロロが聞き返す。

「そう、海」
「どうして」

 なんでだろう。わからないけど、このまま走ってたらなんとなく着きそうだし。適当な理由をクロロはそうだなとあっさり首肯し、さらにスピードを上げた。仰いだ空は雲ひとつなく澄み渡り、これまた冗談みたいに青かった。着いたらその念とやらで砂浜に絵でも描いて遊ぼう。



犬も食わない


190620