お目覚め一発稲妻のようなくしゃみが出て、私は花粉症にかかったことを知った。ブヒン!とは尋常じゃない。江戸でタチの悪い花粉が飛んでるとは聞いたけど、もうこんな郊外まできたんだ。
『みなさん、ただいまY星から持ち込まれた凶悪な花粉が…ブヒン!』
町内放送が流れると、あちこちの家で勢いよく窓を閉める音が続く。マヌケなくしゃみを連発するご近所の皆さんにならって、私ものろのろと施錠にかかった。

『続いて大江戸警察署からの勧告です、先の大使館爆破事件の実行犯とされる――』

 私は窓を閉めた。音声がきれいに遮断され、部屋は静寂を取り戻す。そういや玄関の鍵閉めてたっけ?のそのそ立ち上がり、玄関口へ向かう。鍵といってもうちのはいわゆるサザエさんちのアレと同じかんぬきだ。家賃相応で吹けば飛ぶようなショボい鍵だが掛けないよりはマシだろう。心なしか戸口に近いほど花粉が飛んでいるのを感じて、目がしぱしぱする。

「は…は…はっ……」

 我ながら焦らすねえ!苛立ちを覚えながら、私は上体を反らす。目を瞑っていたせいで、外から引き戸がこじ開けられ、グラッグラのかんぬきがへし折れて飛んだことにも気づくに至らなかった。戸はゆっくりと開き、外の光と花粉が室内に入り込む。そして、人影の正体は玄関口に滑り込むなりニヒルな笑みを浮かべると、

「騒ぐなよ。少しでも逆らえばこ――」
「はくびしん!」

 家へ入るなり有袋類の名前を浴びせられた男は、しばしドアを閉めることも忘れて、呆れたように私を見ていた。





「まあココアでもどうぞ」
「なんなんだテメェは?」

 彼は端整な顔をことさら歪めて威嚇した。が私はそのときティッシュケースを探すのに必死で、まったく恐怖を覚えなかった。鼻がむずむずして気持ち悪い。花粉が頭をユルユルにするのか元からそうなのか、ノリで家にあげてしまった。男への不信感やら恐怖より、鼻水が先に垂れてきたからだ。玄関先でグダグダしている場合ではなかった。
 ちょうどいいあたたかさのココアが二人分、テーブルで湯気を立てている。遠慮をするなと言ったのに、彼はしばらく身じろぎもしないでマグカップを睨みつけていた。飲まないのかな。お構いなしに私は自分の分をグビグビ飲み干した。染み渡るわ。フーッと息をついて「どうぞ」と言うと男は「死ね」と返す。どんだけイライラしてんだ。

「普通に迎え入れるんじゃねえ」
「私今鼻つまってて頭ボーっとしてるんですよ」
「チッ…とんだイカレ女の家だったな…」

 人んち来といてその言い草は何なんだ。ちょっとムッとしていると、男は顔を顰めたままココアに少しだけ口をつけた。まるで人に初めて餌をもらう野生の動物みたいだ。さっきのひどい言い草がすっかりどうでもよくなった私は、ほっこりした気持ちで問いかける。

「このココア、何が入ってると思います?」
「ゲフッ」  男は突然むせ込んだ。
「えっ、ちょ、大丈夫っすか」
「いい度胸だなてめェ…何を盛りやがった」
「ええ、なんも盛ってないです!ただのココア!」
「じゃあ今の質問はどういうつもりだクソアマ」
「いや、黒豆……」
「………」


 秒針の音がやけに大きく聞こえた。何なの。黒豆ココア、うまいじゃん…。向こうは口を開こうとせず、ただ腰にさした何かに右手をかけて黙々と思考に耽っている。会話弾まないな。家にあげた上にココアまで出してしまったが話題もないし、そもそも初対面だ。気の利いたお茶請けもない。ココアって何が合うの?そもそもうちにあるおやつ的なものといえばチーズだけだし……

「…何が狙いだ。間抜け面で何を考えてやがる」
「あのー、チーズ好きですか?」
「アア?!」
「あっでも、トーストに乗せるヒラヒラのやつしかないんですけど…」
「死ね」

 正直に言っただけじゃん!!まあ普通ヒラヒラのやつは人に勧めないか。しかしこの人何が地雷なんだか分からん。

「じゃあ、お名前教えてください」

 男は眉をひそめて、菌類でも見るような目を私に向けた。ひどくない?名前聞いただけなのに。

「くだらねェ冗談を言えば、殺されずに済むと思ったか?」
「ええ…?殺…?初対面だし、まずは名前聞くかなって」

 いちいち言い回しが怖すぎるんだよ、と思いながら私は洟をかんだ。男は訝しげに目を眇めている。この様子だと自分の知名度にかなりの自信があったようだ。何してる人なんだろ?まったく記憶になかったが、そう伝えるのは失礼というものだろう。ここは知ったかぶっておくか。

「ここまで出てるんですよ、でも名前だけ分かんなくて。アレされた方ですよね」
「ああ?!」
 だからこえーよ!!
「えーと、アレ、こないだ見ました。正直びびりました」
「…現場にいたのか」

 現場?現場ってなんだ。この人は外でなんかする人なのか?パフォーマーとか。直接見たことにすればボロが出るか。

「いや、うちの母が」
「!………」
「スゴかったわー!って帰ってきました」
「?!!」

 男は目を剥いた。なに?何のリアクション、それ?この方向で話合ってる?

「…生きてんのか」
「え?ぴんぴんしてますよ。なんか、その、興奮してたし。私も頑張るわー!って言ってました」
「テメェら親子はなんなんだよ!」
「(怒られた?!!)」

 またミスった。ソワソワしてコップを掴んだが先ほど飲み干したので空だった。慌てふためく私をよそに彼はこの短時間でどっと疲れたように見える。

「……」
「……」
「とりあえずお名前教えてください」
「俺の名は…」

 ふいに音が消える。時の止まったかのような錯覚。

「高杉晋助だ」
「ぶえくしょん!」

 はっとして横を向くと、彼は物言わずどえらい顔をしていた。人がこんな怒ってるの初めて見た。さすがにマズいなという気持ちが湧いてくる。私ってこういうとこあるからな。

「あの、つい条件反射で…『杉』とかモロで……」


 ごにょごにょ言い訳していると高杉は大きい舌打ちをして立ち上がった。また怒らせた。「えーと、高杉さん」遠慮まじりに呼び止めたが、彼は振り向かない。

「もう行く」
「そうですか…」
「てめェと話してるとバカがうつる」
「……」
「フン、さすがに名前で勘付いたか。だが今さら刀突きつける気にもならねーよ。付き合いきれねえ。別の街へ潜む」

 玄関へ歩き出す彼になんとなくついていった。廊下にさっき吹っ飛んだカンヌキが落ちている。がらりと戸を開けた高杉の背中を見ていると、孤独が感じられて、途端に彼をあわれむ気持ちが湧いてきた。誰であろうとわずかな時間でも一緒にココアを飲んだ相手には情が移るのだろう。危ないですよ、とこぼすと高杉はちらとだけこちらを向いて、薄く笑った。

「とことんいかれた女だな。俺の身でも案じてるのか」
「当たり前じゃないですか」
「…」
「私にも深刻さぐらいは分かります。だってみんな警戒して…」

 続けようとする私の言葉を遮って、高杉は戸を開けた。「待って!」見ず知らずの他人のはずがやけに熱が入る。しかし高杉は戻ることはなかった。遠ざかってゆく後ろ姿と彼の未来を思うと苦しくなり、私は叫ぶ。

「あのっ!」

 高杉は振り向いた。せめて、せめてこれぐらいはさせてくれ。焦燥と共に胸の内を吐き出した。

「花粉を吸い込んだら大変です!マスク差し上げますよ!」
「そっちかよ!」








070922 加筆修正:20160310 高杉のことがよくわかりません