正午を回るころには、窓の外を流れる風景はすっかり変わっていた。街から離れるにつれ広がっていく雲一つない澄み渡った空を、私はむっつりと黙り込んだまま見ていた。

「あと二時間あれば着くだろうね」
「………」
「お腹空かない?あ、車内販売来るよ」
「………」
なに食べたい?」
「………」

いつまで黙ってるつもりなの、とイルミが尋ねた。しかし文脈に比してさほどこの男の機嫌は悪くないことを私は知っている。わかる人にしかわからないが、きわめてノーマルなイルミといえる。むしろ怒っているのはこっちだ。私は頑として窓の外をみていたが、戸口で困ったように佇む人の気配を感じたので、桟に頬杖を突いたまま答えた。

「何もいらない」
「そう。あとで欲しくなっても知らないよ」
「食欲ない」
「あ、そう」

イルミは「俺、サンドイッチとコーヒー」とまるで似合わない注文をした。生まれながらのボンボンが二等列車のパンをお気に召すか疑わしいが、たとえ彼が人生一度きりの庶民的な食事に不満足だろうがどうでもいいことだ。金を受け取るなり販売員はコンパーメントから逃げるように去って行った。閉じたドアの向こうでカートを押す音が遠ざかっていく。あと二時間あるんだから気楽にすれば。もぐもぐと咀嚼しながらイルミが言った。包装の開け方も分からず四苦八苦していたようだが、意外と文句もなしにサンドイッチをかじっている。コーヒーのパックにストローを刺すと、物言わぬ私にもう一言。

「飛行船で来れば早かったのに」

どの、口が、そんなことほざいてるんだ!鬼の形相で睨みつけた私に、イルミはコーヒーを飲み何食わぬ顔で「そんな顔してもあげないよ」と告げた。この男を直ぐさま目の届かない所でスッキリ殺ってくれるなら、有り金はたいたっていい。ありえない妄想で気を鎮める私を乗せ、列車は走る。イルミの実家、ゾルディック家へ。






頭のイカれた奴だとは昔から知っていたが、三か月前のあの瞬間、いよいよこの男は人を殺し過ぎてトチ狂ってしまったのだと思った。忘れもしない仕事帰りの夜だ。ターゲットの山荘から抜け出し、車に乗り込む。イルミはポケットのキーを探りながら言った。

」「どうしたの」「結婚しようか」「…は?」

車は事もなげに発進する。冗談を言うという回路が脳みそに存在しないと思われるイルミが、私を楽しませる為にこんなことを言うわけがない。とはいえマジメにこんな話をする関係でもない。もしかしてコイツ敵が放った偽物か、と身構えると、ハンドルを握るイルミが助手席の私を一瞥した。

「返事は?」
返事は?て。
「いや、何言ってるか全然分かんない」
「結婚。するでしょ?」

しねーよ。もしかしてケッコンって私の考えてるあれじゃなくて、人の画期的な殺し方かなんかか?私が疑心暗鬼に陥る隣でガンガンアクセルを踏むイルミは、今度は顔ごとこちらへ向けた。危ねーよ前見ろ前!こりゃ紛れもなく本物のイルミだ。

「えっと、それさ、確認しとくけど、男女が婚姻を結ぶ奴ではない方の、ケッコンだよね」
「ではない方って何だよ」
「えっ…え?じゃあ、イルミあんた何言ってんの大丈夫?相手よく見ろ、私だよ」

少しもスピードを緩めずに突き進んだ車は、ガタン!と木の根か何かに乗り上げて束の間宙に浮いた。シートベルトを忘れてしこたま天井に頭を打ちつけた私に、追い打ちのようにイルミは告げたのだった。

「遺伝子強そうじゃん」




イルミ=ゾルディックはこの一言だけで確実に地獄へ堕ちるべき業を背負ったといっても過言ではない。そうでなくても散々罪を重ねてきているのだから、七回くらい羽虫へ転生するべきだ。ポジティブな見方をすれば、念能力者としてかなり高いハードルを越えたのだろうが、その点を踏まえても奥深い未開のジャングルでゴリラとでも子作りしててほしい。

サンドイッチを全て平らげてしまったイルミが口の端を指で拭う。警戒が足りなかった。陸路なら逃げ場があると油断した結果がこれだ。一等車では私が警戒するだろうとわざわざ二等車をとった抜け目ない大嘘つきが、私の腕をがっちり掴んだまま乗り込んだ瞬間、列車は仕事先であるはずの土地とは逆方向へ走り出した。ククルーマウンテンまでノンストップの地獄行き急行だった。




右手にある窓を横目に見る。軽く叩いてみるが音はしない。分厚そうだな。叩き割れなくはないだろうが、さすがに時速300キロの列車から飛び出したら死ぬだろう。いや死なないかもしれないけど、携帯の電波も入らないような山だらけの僻地に取り残された所で次に打てる手がない。私の眉間の皺からおおかた察したのか、イルミはなんの慰めにもならない気休めを口にした。

「別に殺されに行くわけじゃないんだから、いいじゃん」
「よくねーよ。あんたんちの門くぐった瞬間訳も分からんまま配偶者ってことにされるじゃん。そんなんならまだ飛び出してその辺の岩とかに配偶されるわ」
「頑固だなあ」
「考えてみてよ。頑丈な遺伝子ですねケッコンしましょう、ハイいいですよってさ」
「ならないの?」
「ならねーよ」

でもさー、とイルミは続ける。人の話をまるで聞いていない。

「俺の家、どういうとこか知ってるだろ」
「強い跡取りが欲しいならゴリラとでも子供作れば?」
「ゴリラよりはの方が強いだろ」
「ぶっ飛ばすぞ」

少し腰を浮かせて拳を上げてみせると、イルミは出来ないくせにと呟いて余裕綽々に足を組み替えた。それもそうだった。出来るものなら三ヶ月は前にやっている。断られても困るんだけどなあという自己中全開の言い回しが、決定的に私の心情についての想像力を欠いている。マジで勝手に困ってればいいと思う。天空闘技場にでも足を向ければ、十個投げた石の五個くらいはゴリラより強い女にあたるだろう。そうやって探してれば、嫁いでくれる稀代の物好きだってひとりくらいはいるはずだ。私は御免だけど。こんな暴虐に首を縦に振ったら、人生ごと棒に振ることになる。

「せめて結婚って何なのか、まともに分かってから出直せば?」

いつもなら二秒で反論を被せてくるところだ。が、ほんの少し、間が空いた。あれ、と思って相手を窺う。ここまでイルミの要求を突っぱねたのは初めてだからだろうか。んーー…と唸ってイルミは足下に視線を落とし、なにごとかは考えている様子だ。もしくは考えているポーズをとっている。珍しいなと思ったが、答えを待つというほどの時間も経たないうちにイルミはあっさりと、「分かんないな」と肩をすくめた。

「分かるわけないだろ。親もその親も、そういう結婚しかしてないし。俺んち、変だし」
「自覚あったんだ」
「多分一生考えたって思いつかないね」

この男が意見を譲るところ、初めて聞いた。不意を突かれた瞬間、イルミが突然目線を引き上げ、まっすぐに私を見据えた。

「けど、以外とじゃ俺はうまくやっていけないよ」

出した答えの是非を伺うように首を傾ける。物言いたげな視線に急かされても何も答えられない。どう?じゃないよ。


「だから結婚しよう」




その時進行方向からやってきた列車が触れ合うほど近くを通り過ぎ、車体が揺れる程の轟音を立てた。

知り合いという知り合いに触れまわってやりたい。あのイルミ=ゾルディックがこんなことを!しかもこの男にとっては今の関係はうまくやっているといえるらしい。人をボロ雑巾のように扱っておいて。色々な思いが止め処なく頭の中を動き回ったが、やがて列車が行き過ぎて静かになった頃に、笑っているような情けないような上ずったため息が出た。それでこの話題は終いのようだった。イルミはまあそういうことだから、と呟くと小さくあくびをする。

威勢よくふっかけておきながら頭が真っ白だ。結婚ってなんなのか。私にだってほんとはわからない。ただひとつ確かなのはこのままついていけば勝手に家業繁栄の礎にされるってことだ。いいのか?よくないだろ。絶対、よくない。駅から逃げる算段について思いを巡らせる。ダメもとでもやらないよかましだ。私は再び無表情に窓際へ頬杖をついて流れる山脈を目で追いかけた。

ああ、でも。噂に聞くゾルディック一家は少しだけ、見たいかも。

窓の外で一声鳴いてトンビが宙返りをした。審判の場所へ向かう、道のりはまだまだ続く。




20130214 加筆:20170403