長い夢を見ていた。旅団の誰かと何かバカげたものを盗んで逃げ出す夢。懐かしい人に会って、くすんでいた遠い記憶が一気に色づいたみたいだった。だからこれもきっと寝ぼけた頭が見せた白昼夢だ。そうであってくれないと困る。

「あ、あなた私に何の用ですか」
「あなたじゃなくてヒ・ソ・カ♠」

 うわあ。予感が確信に変わって後ずさる。対峙した相手は憶えてたんだ?と相合を崩したが、忘れるのを失敗したといった方が正しい。



 大事件の翌日とは思えないほど昼まで続いた長い惰眠を打ち切ったのは、フロントからの呼び出しだった。
「お連れ様が一名、ロビーでお待ちです」

 誰?

 携帯に着信はない。ということはキルアでもゴンくんでもない。クラピカ達に生存が知られた以上、コミュニティ側からアプローチがあってもおかしくないが、部屋まで押し入って私を宙吊りにする方が手っ取り早い。耳を澄ますにホテルは静かで平穏そのものだ。接触がないということは、私の持ち得る情報に価値がない――つまりマフィアに旅団の面が割れたか、事情があって私の生存の事実がクラピカ達止まりになっているかだ。
 内通の疑義が残る怪しい生存者を放置している時点で後者かもしれない。大穴でいくと、昨晩のうちにヨークシン中の構成員が全員旅団に吹っ飛ばされたという可能性もある。
 じゃあロビーで待ってるの誰?


 エレベータの扉が開いた瞬間、逃げられない間合いに立っていたその男は鷹揚に手を振った。

「やあ♥」
「……!!っへむがっ、もぐぁっめごいま!!!」

 変態に襲われています!!腹から出した渾身の叫びは目にも止まらぬ速さで口を塞いだヒソカによりあえなく阻止された。ガッチリ抑えられ過ぎてほぼ真空状態だ。力強!!

「“部屋が汚水で満たされています”? ダメだよホテルを汚しちゃ♣」
「言ってねーわ!」
「ちょっと寝過ぎじゃない?待ちくたびれたよ」

 ヒソカは張り付いたような笑顔と裏腹にとんでもない力で私の腕を引き、ロビーのカフェスペースへ無理やり導いた。あらかじめ注文を終えていたのか、クラークがレモンティーとチーズケーキを二つ運んでくる。出口までの距離を目算する私をよそに、彼は向かい合った革張りのソファで足を組み、見透かしたように笑んでいた。怖っ。

「そう構えないでよ♦ ヨークシンでちょっとした用があってね、探してた人間が偶然君だったのさ♠」
「探してた人間?」
「昨夜のオークションただ一人の生き残り」

 ガシャン。手をかけたカップがソーサーと触れて耳障りな音を立てた。近くにいた他の客が空気のぴりつきを察したのか辺りを怪訝に見回す。静かに息をついて覗き込んだ琥珀色の表面には、目の奥の強張りを隠せない自分が映っていた。

「なんのことかよくわかんないです」
「君、嘘がつけないね?安心しなよ、ボクはコミュニティの人間じゃない♣」

 ちょっとした伝手があってねと続けたヒソカは紅茶に口をつける。どこから得た情報?胸中に猜疑が広がる。順当に考えればクラピカ達と繋がりがあるということなんだろうけど、ならば単独で私に接触する理由はいよいよ不明だ。ただ一人、と言い切ったのにも違和感がある。ヴェーゼという女性は助からなかったんだろうか。ぐるぐると考えても答えは出なかった。

 とりあえずヒソカが白昼堂々凶行に及ばないことだけを願いながら、気休めにチーズケーキを半分ほど口に詰め込んだ。変態が忘れた頃に会いにくるという異様な状況のせいで、モソモソした泡を含んだみたいで味がしない。部屋が汚水で満たされている方がましである。

「マフィアに関係ないなら、どうして私に会いにきたんですか?賊の手がかり、なんも持ってないのに」
「言っただろ?君が“生き残り”だからさ」
「……内通者なら昼まで寝てないでとっくにトンズラしてるでしょ」
「それもそうだね♣」
「ならどうして、」

 ヒソカはカトラリーを置くと脚を組み替え、何かを促すように手掌をゆっくりとこちらへ開く。
「察しのいい人間なら気づいている筈だ、マフィアが今血眼で狩ろうとしている賊が――」

 鋭い眼差しが私を射抜いた。
「――幻影旅団だと♦」

 ……。

「だとしたら放っておいた方がいいですよ、S級賞金首だし、危ないし」
「そうかもね♣」
「なんか蜘蛛の刺青十箇所入れたスーパー旅団員とかいるらしいし」
「そうかも……何だいそれは?」
「ね、ネットの噂で」

 ポーカーフェイスを崩したヒソカはホントに何?と片眉を上げている。前にシャルナークがハンターサイトに書き込んでたデマだ。あんなに連投してた割に大して広まってないんかい。旅団の危険性を強調するために、そういうのが2、3人いるらしいですよと誇張して、無理くりに残りのケーキをまた詰め込んだが、ヒソカは「いないでしょ♦」と頑なに信じてくれなかった。挙句そんなに食べたいならあげるよと自分の皿を私の前に押し出している。いらないんだけど!

「じゃあボクからもう少し信憑性の高い情報を教えてあげようか」
「いや大丈夫です」
「気が変わって旅団に関わりたくなるかも♥」
「多分ならないです」
「団員が一人、マフィア側の能力者に狩られたと言ったら?」



 ごくん。味のしないケーキを呑み下す。
 数度瞬きをして、まだ飲んでいないレモンティーのカップに口をつけた。少しぬるい。

「ムリだと――」
「……」
「……思うんですけど、並の能力者には」

 ヒソカの目が三日月のように細くなる。ここにきて私の発言を待つなんてずるい。体温が上がって、全身に血が巡っているのがわかる。ロビーの雑音がいやにはっきりと耳に入ってきてうるさい。認めたくないがやっぱり私は嘘がつけない。

 そんなわけない。
 そんなわけがない。

「もしそうならネットか何かに晒されて今頃大騒ぎでしょ」
「そうしない理由があったんじゃないの」
「マフィア側の能力者なのに?」

 言いながらそれを否定する可能性が過ぎった。私怨?
 ――でも。
 “でも”の後に続く言葉が、次から次に浮かんでは喉の奥へ重い塊になって落ちていく。旅団が?どうやって。誰を。そんなわけはないのに。ヒソカは席を立つと、押し黙る私の傍らへ近づいて「狩ったのは鎖使いだそうだ♠」と耳元で囁いた。
 鎖使い。マフィア側の、念能力者。

 ヒソカはもはや、私と旅団に何らか繋がりがあることは疑いもせずに話をしている。でもそれを理由に私を強請るわけでもない。感じられるのは、動揺させ、刺激を与えようとする意図だけだ。どうして。

「…………あなたの目的は何?」
「イイ顔だ♥」

 ヒソカは肩が触れそうなほどの距離で私の隣に腰掛けた。ソファの座面がぎしと沈む。殺気はないのにびりびりと嫌な気配が全身を包んで、全身が総毛立つ。

「ボクもハンターさ、旅団の中に焦がれてる獲物がいる――それだけのね」
「ならその鎖使いと組むなりマフィアに雇われた方がいいでしょ?」
「複数でヤるのはキライな性質でね♥ 彼らはあくまでカードの一枚だ、混乱に乗じてボクが願いを遂げるための…。でも望み通り動くかは運次第♦」
「……もし私がカードの邪魔をしたら?」

 覗き込んだヒソカの瞳の奥が好奇に瞬いた。

「私が旅団に肩入れしてると思って会いに来たんでしょ。なら鎖使いを見つけて旅団に差し出しちゃうかもしれないですよ」

 考えがあってのことじゃなかった。でも自分でも止められない何かに動かされて言葉が滑り出す。ヒソカはたっぷり間をとってこちらを見つめ、やがてクククと愉しげに笑い声を漏らした。残った紅茶を飲み干すと、席を立ちさっと身を翻す。

「盤外から齎される混沌を期待して君に賭けた♦ でも旅団に苛烈な報復を望むなら、そうすればいい」

 まるで他人事のような、本当に、ただ私の前に選択肢を棄てていくような口ぶりだった。

「君を殺すかどうか悩んでたんだ♠ でも会ってみて、さっきの話を伝えることにした♥ じゃあね、





 ヒソカが去ったホテルのロビーは荷物を抱えた宿泊客のざわめきに包まれ、何事もなく午後の慌ただしさを迎えている。知らぬ間にテーブルチェックは終わっていて、ティーセットが二揃いなければやっぱり白昼夢としか思えなかった。どっとソファに凭れ込んで吹き抜けの天井を仰ぐ。大きなガラス窓から差す光が眩しくて、腕で顔を覆った。
 信じたくない。
 旅団の誰かが、負けるわけはない。でも、もしも真実なら?このまま旅団は否応なく“苛烈な報復”へと向かっていくだろう。団員の誰かを下すほど強い怨恨を抱いた、能力者と対峙するだろう。
 してほしくない。けど、私に何ができる?

「マフィア側の、鎖使い……」
 旅団に接触すれば――パクノダに会えばクラピカの情報を渡してしまうのに。

 鎖使いは見つけるまでもなく連想してしまっていた。昨夜、オークション会場へ駆け付けた彼の右手に気づかなければよかった。


 “気が変わって旅団に関わりたくなるかも”
 ヒソカの声が頭から離れずに、私はそこからしばらく動けなかった。

真っ白なうそ




20250213
クラピカウボォー戦はこの日の夜なので、「旅団が狩られた」はヒソカのブラフです。
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