ばら色の陳腐
 が笑っている。この女は、はやらない喫茶店にときどき訪れては遠い国のできごとを語って聞かせる男を、休暇中の記者だと心の底から信じ込んでいる。結末まで話したことはない。「俺が殺して全部盗んで終わり」だからだ。起こした張本人が述べ立てる事件の顛末に聞き入って。ばかな女。
 わたしも遠くに行きたいなあ。
 呟くの手はさっきからカップの同じところを磨いている。
「手の中の物を置いて、そこのドアを開けて外に出ればいい」
「それから?」
「適当に歩いていけば天国も地獄も地続きになってるさ」
「でも長いこと店を空けたら、お客さんが心配するし」
「客?いないやつの心配なんか必要ないだろう」
「ぐ…。っていうか、ここ閉めたら休暇中のあてがない寂しい人が困るでしょ」
「だれのことだ」
 ふふんとだけ答えてようやくオーダーにとりかかる。機嫌が良さそうだ。騙しているのはこちらだが、あまりに蒙昧なのでこいつは大丈夫かと呆れてしまう。この席に座るのは、偶然お前の喉から出る音が、ガラスケースに並ぶ双頭の獣やうつくしい色の目玉のように価値あるものに思えるという、それだけのことだ。
「ねえ、アメリカーノでいいんだっけ」
 この期に及んでそんなことを聞いてくる。鼻先に燻した豆の香が漂う。
「……いい加減に覚えてくれ」
 諸々の含みが合間ってため息が出た。置かれた場所へわざわざ足を運んでやり、襟元を掴み聖書を読み上げろとも請わない。ずいぶん命拾いしているぞお前。お前のそれは、首と胴が繋がっていないと失われるんだ。
 あとはもうずっと前に交わしたくだらない会話を覚えているところ。淹れたコーヒーを静かに置くのがいつまで経っても下手なところ。それをからかった時に笑う顔も。