正体不明
 断る選択肢はなかった。マンションのエントランスを出たら迎えに来てたから。でもなあ、あっちも同じ気持ちなんじゃないかな。
 はじめて歩くヨコハマの街は平日なのにすごい人出だ。うちの地元とは大違い。一泊しかできないのが残念だ。せっかくだから観光地でも回りたいなあ、ってそれくらい言うよね普通?そんで兄も、おれ明日仕事なんだよなーってなるよね。そりゃそうだ。泊めてくれるだけでよかったんだよ。そっから兄は誰かに電話をかけて、次の日の午後、表に黒塗りのベンツが停まってた。なんでよ。
 香ばしい匂いに気づいて立ち止まった。向こうからきた人が邪魔そうにわたしを避けていく。
 振り向くと三歩半くらい後ろのギリギリ連れ合いといえないくらいの距離で、おっかない顔してアオ…サマ…さんがめっちゃ堂々と路上喫煙しながら突っ立っていた。名前が難しすぎて覚えてない。ここまでの会話も雰囲気で乗り切っている。
「胡麻団子食べていいですか」
 勝手に食えよ、といいたげに彼は顔の前でサッと手を払う仕草をした。おばちゃんに個数を聞かれてはたと気づく。
「…食べますか?」
「食わねえよ!」
 こわっ。口調が荒いのは怒っているわけではないらしい。つか名前覚えろや、サマトキさんだと続けて彼は紫煙をボワァァと吐き出す。なんの知り合い?兄は都会で何やってんだ。胡麻団子を頬張りながら近づいていくと、サマトキさんはばつが悪そうに煙草を携帯灰皿に押し付け、ほらさっさと行けよと促した。なんだか犬の散歩みたいだ。
 サマトキさんはわたしの案内役という体だったけど、ほとんど喋らずにわたしの後ろを歩いて、そこが一通り終わったらまた黒い車でどこか見たことのある場所へ連れて行ってくれる。半日それの繰り返しだった。知り合いにこういう姿を見られたくないのかもしれない。
「……お前」
 港でベンチに座ってソフトクリームを食べていた時、一度だけ話しかけられた。
「兄貴と仲いいのか」
 食べてばっかりで呆れられたのかと思ったけど、全然違う質問に面食らう。彼はわたしのことをじっと睨みつけている。
「うーん、そんなに…連絡もとらないし、会ったの久しぶりだし」
「…………あっそ」
「でも、きょうだいだから、顔みて元気そうでよかったなって思いましたよ」
 おっかない知り合いできてるけど。とは言わずにコーンに噛り付く。サマトキさんはあっそ、と繰り返して会話はちっとも弾まないまま終わった。
 少しだけ眉間の皺が浅くなったようだけど気のせいだろうか、と考えていた帰り道、突然サマトキさんは兄貴に食わせてやれと点心の詰め合わせを買ってくれ、固辞するわたしに無理やり持たせるとマンションの前まで送ってくれた。一体どうしたんだろう。
 また来いよ、の言葉と共にスモークガラスのドアがばたんと閉まる。お辞儀で見送って頭をあげると、バックライトが滑るように通りの向こうへ消えて行った。ああ…ぜったい車の中におうよなあ。