襟高く夏の首
 道を覚えていたから。この街を目指した理由はそれだけだ。
 苛烈な仕事に突然嫌気がさした。思い切りはいい方だ。辞表を出した数日後、真夜中に宿舎からリュックひとつ持ち出し原付にまたがった。あれほど大きく感じた中王区の壁が後ろに遠ざかる。むわっとした風を全身で受けながら高笑いが止まらない。やったったぜ!
 それからわずか15分。全てを手にしたかのような高揚感は塵と消え、辞めんの来月でよかったと後悔した。暑すぎ。
 この先のことはなにも決めてない。ただ真っ暗い道の先にぼんやりと浮かぶ、シブヤの灯りに向かってひたすら原付を走らせた。
 一夜明け早朝、カプセルホテル横の公園。
 ベンチ上の無職にも、樹々の隙間から燦々と夏日は差す。大通りが少し煩くなってきた。始発が動き出したのだろうか、みんなこんな朝から大変だなあ。コンビニで買った菓子パンを頬張り、おこぼれを狙う鳩が右に左にと歩き回るのをしばらく眺めた。図書館が開くまではそうやって過ごすつもりだったのだ。
 だったのに。
「オネーさん、こんな時間に何してるのー?」
 近づいた影に驚き鳩がバサバサと飛び立った。心臓が跳ねてパンを取り落としそうになる。
 うそでしょ。
「元気ないの、大丈夫?」
 顔を上げると、ピンクの髪で派手な服着た少年が立っていた。いや、この人少年じゃないのだ。わたしは知っている。
「飴村、乱数」
 うっかり名を呼んだため、彼はボクのこと知ってるんだとニコニコした。が、すぐにその表情は翳る。
「……ねー、キミのこと見たことあるよ。言の葉党の人だよね?」
 その場に縫い付けられたように動けなかった。涼しげなブルーの目の奥に敵意が滲んでいる。ここはシブヤ。彼が暮らす街だ。わたしが道を覚えていたのは、上司に伴って何度も彼に会いに来たからだ。でもこの広いシブヤで遭遇するなんて、数いる下っ端の顔を覚えてるなんて。
 ありえない。あと信じられないくらい気まずい。
「…言の葉党は辞めました」
「ふーん。なんかすっごく悲壮感出てたから声かけちゃったけど、心配して損しちゃったかも〜」
 大げさにため息をつくと飴村乱数はまたニコッと笑った。ぜったい言いたいこと隠してる硬い笑顔。はじめに見せたそれと全然違う。わたしが知ってる飴村乱数はこっちの方だ。
「でもさー、なんで辞めたの?」
「いや、まあその。色々といやになって」
「じゃあもう忠誠心とかはないんだ?無花果オネーさんの弱点でも教えてもらおっかナー?」
「ヒラ党員なんで機密とかはマジでなんにも…」
「……」
 目えこわ。なんだこいつ、って書いてある。知らんもんは仕方ないだろ。最悪の時間が流れて、飴村乱数はくるりと踵を返して何も言わずにわたしの前から歩き去った。
 小さくなっていく背中を眺め、残りのパンを一気に口に詰め込んだ。やばい、どっと疲れた。ベンチの背にもたれかかって、さっきの問いを頭の中で反芻する。なんで辞めたか、答えられなかった。本当はあの苛烈さの先にあるものが理想の国だと思えなかったからだ。だけど彼自身にも銃口が向いていた。わたしも向けてた内の一人だ。言えるわけがない、今さらそんなこと。
 蒸した風が吹いて髪が舞う。またわたしの前に影が落ちた。
「これあげるよ」
 飴村乱数がかわらず硬い表情で立っていた。それぞれの手にファストフード店のカップ。なんで。戸惑うわたしに片方が差し出された。反射的に受け取ろうとしたとき、すごく強い力で手を掴まれた。え、ちょっと。そのままベンチから立ち上がらされ、引かれるままに公園の出口へと歩き出す。わたしはビビって口をつぐんでいたし、彼はこっち、とだけ言って黙っていた。
 公園の前の道路を少し行ったところの大きな交差点で彼は立ち止まった。
 横断歩道の向こう、ビルの上のひときわ目立つ看板を指差して振り返る。ビビッドなアパレル広告。
「ほら、あれボクのブランドだよ」
「…」
「今季はすっごくハッピーなコレクションなんだよ。オネーさんも買ってね」
 飴村乱数はそうしてまた笑う。色が弾けるみたいに。あ、知らない顔だと思ったときには勝手にハイと言っていた。そこではじめて、励ましてくれてるのだとわかった。壁の中にいたときは、いまにも糸が切れそうに張り詰めたまなざしが彼の真実なんだと思ってた。きっとそれは間違ってない。でも、こっちもほんとなんだと思う。
 今度こそカップを受け取ると、表面はきんと冷えて結露で濡れていた。信号の色が変わって人が一斉に歩き出す。少し離れたところでそれを見ながら、ストローに口をつける。バニラシェイクだった。冷たくて、びっくりするくらいおいしい。おいしい、と呟くと、飴村乱数は退職オメデトーと言って自分もシェイクを飲んだ。
 それからわたしたちは公園に戻って、木陰のベンチに座り少しだけ会話をした。
 彼は締切に追われてて、徹夜明けの気晴らしに散歩をしてたのだという。そこで悲壮感に包まれた無職をみつけたのだった。
「ねー、シブヤに家借りれば?ここは楽しいよ〜」
「それもいいけど先立つお金が…」
「あんなキツいとこにいたんだし、いい仕事すぐ見つかるんじゃない?」
「そうですか…」
「キミのタフさはボクが保証するよ!」
「………。たとえば飴村さんのショップで雇ってもらうっていうのは」
「うんそれはダメ!人足りてるから!」
「そんな食い気味に言わんでも…」
 蝉が鳴き出した。向こうに停めた原付のボディが、日差しを受けてぎらりと光る。雲ひとつない晴天だ。飲み干したシェイクはまだちょっと冷たいままわたしの手の中にある。盛夏。空がこんなに高いこと忘れてた。
 そういえば。
 あの看板の服いくらするんですかと尋ねたら、彼はニコニコしてスマホを取り出しオフィシャルサイトを見せてくれた。
 高っっ。