じゃない事の証明
その人はいつもお昼に現れて、奥の席で一人で本を読んでた。
「ここのパスタ、うまいね」
初めて給仕をしたときに声をかけられた。よかった、マスターに伝えますね。返して手元から目線を引き上げ、彼を間近で見た瞬間、心臓が止まるかと思った。下げた食器が揺れて音を立てる。今度は彼が本から視線を外した。
「………何か?」
「いえ、なんでも……」
黒い瞳は物言わず、けれど続きを促している。こういう場面での誤魔化しは板についている筈が、なぜかこの人の前では嘘がつけない気がした。変に思われるに決まってるのに。
「お兄さん、家族とか親戚とか多い人ですか?」
「いや、そうではないけど。なぜ?」
「気持ちを害するつもりはないほんの戯言なので、聞き流してほしいんですけど……」
「構わないよ。どうぞ」
影があるんです、あなたの傍に。口にしてすぐ後悔した。彼は僅かに目を丸くする。やっぱりこうなる、生まれてこの方上手に伝えられたためしがない。「あの、違うんです」慌てて繕いの言葉を捻り出す。昔から人の後ろに誰かの影が見えて、といって誰にでもあるわけではなくごく稀に……私の目がおかしいかもしれないけど決して頭はおかしくない…多分……、でもあなたにはこれまでにない程沢山見えたので、珍しくてただ驚いてしまったんですが、やっぱり変な話をして―――
「興味があるな」
予想だにしない反応に面食らった。彼はサーブしたばかりのコーヒーに口をつける。
「オレは結構非科学的なことを信じてるんだ。でもその影とやらは、オレに恨みを持ってる亡霊の類じゃないかな。大勢見えるんだろ?」
内容に反して語り口は涼しげだ。
「そんなことは……」
「なぜそう言える?」
「影が見えてる人は、いい人ばかりだったから」
彼はさっきよりも目を大きくまん丸に見開いた。それから程なくして笑い出す。声を上げて。おかしくてたまらないといった風で、何か含みを感じたけれどそれが何なのか私には分からない。
「ははは!いい人か。いい人ね……それで、オレについているのはどんな奴らなんだ?」
「ぼんやりとですけど……はじめは多分男の人で背格好は……」
目を凝らして特徴をぽつりぽつりと述べていく。他に客のない店内は、有線から流れるジャズが普段よりもよく聴こえた。彼は時折コーヒーを飲みながら静かに相槌を打っていたが、ひとりまたひとり伝える内に、ほんの少しではあったが表情が和らいでいった。
「そうか」
一通り聞き終えた後、彼は呟く。
「たしかにそれは亡霊じゃないな」
この話題は単に私の人格を疑わせるだけでなく他人の内的な世界を暴くも同然であって、影の正体について私は深入りをしようと思えない。そもそもまともに聞いてくれる人がいないけど。ただ、目の前のこの男性は多分気分を害していない。それは理解できた。
「また来るよ」
彼はそう言って席を立った。言葉通りに、その日以降も彼はときどき店に来ていつも同じ注文をした。パスタと食後に熱いコーヒー。他に客のない時だけはどちらかから声を掛け話をした。他愛ない世間話が殆どだったが、長く時間のとれる日は例の話題も挙がった。誰にどんな人間が。大人か子どもか。男か女か。彼は頭が良い人らしく断片的な情報から理屈を明かそうとしていたが、そもそも私が自分自身の見えてるものについて無知で無自覚だったので、有意な手がかりはなく、これといった正解は得られなかった。
話の終わりに彼はきまってなぜなんだろうな、と零したが、答えが出ないのを楽しんでいるようでもあった。
「あの客、クロロ=ルシルフルだろ。この街に住んでて知らないのも逆にすごいよ」
彼の名を知ったのは、彼が姿をみせなくなって数日後のことだ。マスターに物知らずを詰られたが、天空闘技場にこれっぽっちも興味がないから仕方ないと思う。クロロは現れるや否や瞬く間に天上へと駆け上がった、いわば花形のとても強い闘士だったらしい。最後の試合までは。
対戦者両名死亡。審判、観客含む死傷者多数。連日ニュースで流れる映像は目も当てられない惨状だった。
それから一ヶ月ほどして、騒乱からようやく街が落ち着いた頃。買い出しに訪れた日曜の雑踏で私は信じられないものに出会った。
「クロロさん?」
遠くの方からこちらへ歩いてくる見覚えのある姿。周りの誰も気づいていない。あの騒動も過去のものになったのだ。渦中の人がもういないから。いないとされていたから。
距離はどんどん縮まって予感は確信に変わっていく。5メートル、3メートル、すぐそこにいる。別に話しかけようだとか考えていたわけじゃなかったが、声の届く距離に入った瞬間、身体が凍てつくほどぞっとする気配に包まれた。
相貌は別人のようだった。
道の真ん中で一歩も動けないままの私の真横を、彼は通り過ぎる。心臓が早鐘を打っている。他に何も聞こえない。糸で引かれるように視線で追った先、クロロはふいに振り返った。
「まだあの時見た影はいるか?」
肩越しに背後を指で示す。目が合った瞬間、どうしてだか胸が潰れそうに苦しかった。
「…………いない」
――誤魔化しは板についているのに、なぜだかこの人の前では。
「そうか」
クロロは呟いて人混みの中に消えた。その日から二度と彼を見かけることはなかった。彼の瞳に宿った一縷の憂いのために、嘘でもいいからいると言えばよかった。私はそれを後悔している。