地下鉄の改札を抜け、通路から地上への階段を上がるとふわっと美味しそうな匂いがした。見ると今ほど真横を歩き去った人がどでかいタコスを手に持っている。振り返った大通り沿いにチェーンのタコス店を捉えた瞬間、身体がそっちへ反転した。9月3日、16時。丸一日も経っている、イルミの鬼。あれから夜通し悪事に連れ回されたのである。くそ、ヨークシン中の防犯カメラに映り込んでしまった。

 それとは別に、贋物疑惑をでっち上げて出品を妨げるという突貫極まりない作戦は案外うまくいっていた。昨日イルミに処されたブローカーがコミュニティに預けていた緋の眼以下いくつかの品物。その全てについて9月2日の深夜付で特記事項が更新されている。
 “疑義情報あり出品見合わせ”
 悪い人間の社会というのは思いのほか信用の世界らしい。実際にいくつかは贋物だったわけだし、クラピカの雇用主が欲しがりそうな品々は一旦競りから退場したわけだ。

(……だとしても)
 胸につかえたものは全然取れなかった。旅団とクラピカが接触する可能性を、ほんのひとつ除いたに過ぎない。だってヒソカの言うことが正しいなら、お互いを血眼で探しているはずだ。クラピカの雇用主が来場したら?来場しなくとも、クラピカが旅団の襲来を予期してひとりで現れたら?
 霧の中を歩いているみたいだ。しかもあれっきりキルアと連絡つかないし。心配事が多い。

「どーして私に……」
 前へ進む足が止まる。ヒソカへのなんでだよ、という気持ちがたとえようのない大きな不安と一緒に腹の底に重く沈んでいた。
 向き合わせないでほしかった。
 縁もゆかりもないクラピカを、旅団のために売るという選択ができない。競売を止める力もなく人の力を借りて、ただ縋るように祈ってる。誰にとっての何でもない、半端な自分と。

「…………ダメだ。とりあえずなんか食べよう」
 考えたって仕方がないのを断ち切るために歩き出す。
「お腹が減っタコス」
 そうして間抜けな独り言を発した瞬間、私は白昼堂々、ビルの隙間からぬっと出てきた腕にまんまと引きずり込まれたのだった。








「九月のヨークシンシティには――」
 こつ、こつと、ゆっくりした靴音。
「欲しい物全てがある、ってのは正しいらしいな」

 私は男の禿頭を目で追い、それから顔にある傷を見、男の手元へ視線を降ろした。銃を握っているが指先の力は抜けている。少なくとも今撃つ気はなさそうに思える。

「いつか見つけ出してぶっ殺すと決めてたぜ……。部下も取引もパァにしてくれたクソ野郎どもをよ」

 そう言うと男は言葉を切ってこちらを窺った。どうやら私の番が回ってきたようだが、発言したいことが何もない。ただ強烈にこの男の記憶は焼き付いている。かつてクロロと除念の手がかりを求めて尋問したマフィアだ。自分で言うのもなんだけど恨まれて当然である。なんでみんなヨークシンにいるんだよ。
「……」
 私は黙ったまま、椅子の背に縛られた後ろ手をわずかに動かした。ゆるい。多分縛った人間が不慣れだ。
 天井は高く、崩れたコンクリートの柱から鉄骨が飛び出している。埃臭く人けがないが、閉め切られた窓越しに大通りの喧騒が聞こえる。攫われた場所からさほど移動していないようだった。
 男は口角を上げ、身をかがめて私の顔を覗き込んだ。

「一人ってことはお望み通りあの能力から解放されたかぁ?」
「……」
「連れの男二人とあのデカい女は?」
「……」
「ゼンジさん、ゼンジさん」
「うるっせえぞジーン、てめえから弾ぶち込まれてえか!?」
「すっ、すんませんッ」

 ジーンと呼ばれた下っ端らしき男が、でかい身体を縮こませる。攫われたとき私の頭を思い切りしばき上げ、椅子へ縛り付けたのもおそらくこの男だ。気配を探る限り、ビル内にはこの二人だけらしい。ジーンは一段小さく声をひそめた。

「兄貴から電話が……狩りの件で会場に来ていただきたいと」
「チッもう時間か……。ケチな女締めんのは後だな」
 誰がケチな女だよ。無言の中に余裕を含ませてみたがゼンジはちらりとも見ずに出口の方へつかつか歩き出し、ジーンを顎でしゃくる。
「オイ、そいつ逃がすんじゃねえぞ。例のやつ使っとけ」
「ですが同じ奴に一回しか……」
「構わねえつってんだろうが。あっちから二、三人寄越すからてめえは足止めだけ考えとけ」
「承知しゃしたッ!」

 例のやつってなんだろう。絶対ろくなものではないのでさっさと帰った方がよさそうだ。ジーンが深く頭を下げている隙に、後ろ手の縄を捩じ切った。結びが甘い。続いて両足の拘束を解き、立ち上がったところで振り向いたジーンと目が合った。

「お、えッ?!お前何普通に抜けてんだ!!?」
「帰ります、お腹もすいてるし」
「な、ぐッ……!てめ、くそッ……」

 じり、と警戒態勢に入ったジーンは構えた右腕をポケットに入れようか入れまいかで上げ下げしている。電話を掛けるか悩んでいるらしい。私が出口へ近づこうとすると彼は長い腕をバッと広げて目の前に立ち塞がった。

「ま、待てッ!!お前、“逃げようとしてる”な!?」
 ジーンが叫ぶなり何かを握った右手にオーラを込める。うわ!気づいた瞬間、反射的に地を蹴った。拳を振りかぶった時、早くも緊張の糸が解けて腹が鳴る。隙だらけの動きが脅威を感じさせなかったせいだ。
「それ失……ゴフッ!!」
 手応えを感じると共に、彼は何事かを口ごもりながらあっけなく沈んだ。やっぱりタコスかな。





 横幅の狭い階段を降りると、あっさり外へ出た。ほんとにさっきの男以外の見張りがいない。なんだったんだ。一度大きく伸びをしてから大通りの方へ歩き出す。どこかすっきりしない気持ちが残っていた。小さな引っ掛かりがポケットの中で存在を主張する。木彫りの人形。倒れたジーンが大事そうに右手に握っていたのだ。なんか奥の手みたいだったのでむしり取ってきたものの、用途がわからない。

 ポケットに入れたまま手先で弄んでいると、程なくして元いた通りに出た。すぐそこにタコス屋が見える。
「食べながら考えるか」
 なんの気なく店へ足を向けた瞬間だった。ガクン、と両足が重くなる。え?
 それっきり縫い付けられたように進まない。その上ポケットの中の人形が急激に熱を持ち始めた。何!?踵を返そうと上半身を反転させると、ぱっと身体が軽くなった。…………。

「タコス屋行くなってこと?」

 そんな馬鹿な。突入角度を変えて何度か試してみたが、見えない腕にがっちり掴まれているようにその場で動けなくなってしまう。なんなんだよ!!諦めて店に背を向け歩き出すと、今度は携帯電話が鳴り出した。

「こんなときに誰………」


 ディスプレイに表示された名前を見て固まった。どくどくと血の流れる音が耳の内側で聴こえる。
 指をかけて少し悩み、応答ボタンを押した。



『よぉ』
 耳を打つ低く鋭い声。

『久しぶりだな、
「……フィンクス」
 立ち止まった私の側を、やむことなく人が通り過ぎていった。
 薄暗くなった夏の空に月の形がぼんやりと滲んでいる。そろそろ夜になろうとしていた。

失敗




20260807

prev  top  next