4時の約束


「いーやーだーー!!あたしも直すとこ見たい!!」

 叫び声が聞こえるや否や、爆破現場かくやという破壊音がその場に響き渡った。奥の扉の向こうで誰かが暴れている。唖然とする私の目線を遮るように正面に立った依頼人は、場が静まるのを待ったのち、
「……ラジオがつけっぱなしだったな」
 とだけ述べた。それは無理があるだろ。とはいえ金色の前髪から覗く彼の射殺すような眼差しに、触れてくれるなという圧が満ち満ちている。言葉を飲み込んで目を逸らすと、締め切った窓の向こうで甲高いクラクションの音が流れていった。
「外、渋滞してるみたいですねえ」
「うるさくなってきたな。午後から今夜にかけて人入りのピークだろう」
 依頼人が応じた。うるさいのはあっちの部屋である。
 ここは中心街のホテルの中でも、南向き客室から臨めるゲートブリッジの展望が売りだったように思うが、人目を忍ぶように三面隙間なくカーテンが引かれていた。時々いる訳ありの客だ。
 昼一でゴンくんとキルアは修復の終わった壺を抱えて宅配業者へ走っていき、残された手持ち無沙汰の私にハンターサイトから急遽舞い込んだ依頼だった。

「ああっいけません!いけませんってば……お嬢様といえど……、さすがにそれはいけませんってば!」
 今度は奥の部屋で男の声がでかでかと轟いた。何らかのいけないことが行われている。依頼人は一つでかめの咳払いをすると、一層キリッとした顔をこちらに向ける。何なんだ。

といったな、……頼みたい品がいくつかあるんだが、修復にはどれくらい掛かる?」
「どう壊れてるのかさえわかれば、たぶん三十分くらいで終わりますよ」
「承知した。なるべく手短に済ませてくれ」
「美術品でしたよね?」
「概ねそうだ。センリツ、ロベールの人体解剖図から頼む。あの……気色が悪いやつだ」
「全部気色悪いわよ」

 今なんて言った?!不穏な響きに眉を顰める私の前へ、びりびりに破けたとんでもないセンシティブ画像が盆に載って運ばれてきた。……。こんなもんを盆に載せるな。私が静止しているのをどう解釈したか、依頼人がそれは腸だなといらぬ一言を添える。腸だなじゃないんだよ。

「あのーすみません」
「何か?」
「吐いていいですか?」
「!?き、許可できない」
「そうですか」

 そんな確認をすなと言いたげな視線が突き刺さる。それが誠実ってもんだと思いつつ、許可はないので鉄の意志で口を引き結び、アンティークテーブルの上に置かれた品物に向き直った。そのへんのブランケットで依頼品を覆ってみたが焼石に水で、精緻な腸の躍動がもはや頭から離れない。なんでこの仕事受けちゃったんだ。
「ちなみにひときわ目立つ汚れについてだが、前の持ち主が書斎で殺された時に零れた腸が――」
 畳み掛けるように腸でちなむな!依頼人が目を離した隙に、布の下にバナナ型の8色ボールペンをさっと滑り込ませた。修復には代わりに壊すものが必要だが、急な呼び出しで他に用意がなかったのだ。

「――ここまでで何か質問は?」
「ちょっとだけ吐くのはアリですか?」
「量とかじゃない」
「そうですか」
「……」
「……。ところで」
「質でもない。質?質とは何だ。意味不明な質問は控えていただきたい」

 知らねーよ!にべもなく一蹴された深い精神ダメージとは裏腹に、修復は難なく終わっていた。手渡した図面を顔色ひとつ変えず調べていた依頼人は、私の指先が赤黒いことに一瞬眉を顰めた。血か、と微かに唇が動いた。そういう誓約かなんかと誤解されているらしい。ブランケットの下で、修復と同時にボールペンが折れただけである。

「センリツ、例の右腕を頼む。あの小説家の……臭いが不快な方だ」
「クラピカあなた言い過ぎてるわよ」
 続けざまに盆に載ったシワシワの右腕のようなものが運ばれてくる。なんだこれは。修復してどうなるのかさっぱりわからん。クラピカと呼ばれた依頼人は、私がブランケットを盆に覆い被せるなりあっと何かに気づいたような顔をした。
「すまない、こっちはマシな方だ。不快な方はもっと魚が――」
「あっ大丈夫!大丈夫ですもう直るんで!」

 手元でまたボールペンの別の色が折れる微かな音がして、修復完了を報せた。余計なディテールを加えられる前に、若干シワの取れた右腕を放り投げる。「う、腕を投げるな」真っ当な抗議と共に受け止めたクラピカは、今度は私の指先が緑色に染まっているのに気づき、血か!?と目を見開いている。そんなわけないだろ!この人さては面白い人間らしい。


 私が絶え間ない吐き気と戦っている間に、すっかり隣室は静かになっていた。ソファの向こうには修復を終えた品が積まれている。過去ワーストの依頼だった。

「センリツ、残りは?」
「次で最後よ」
 小柄な女性が進み出て、直接私に一抱えほどもあるそれを差し出した。額装されていない絵画。
 ――受け取ろうとしてそれを視界におさめた瞬間、どきりと心臓が大きく跳ねる。
「……」
 動揺は表に出なかったはずが、センリツはなぜかじっと私を見つめている。
「センリツ、どうかしたか?」
「いえ、なんでも」

 なんにせよこれで最後だ。早く終わらせて酒でも飲んで今日見た物は忘れたい。――はずだったのに。油彩を損なう幾つかの線状の傷。キャンバスの抉れ。ごく普通の、傷んだ絵画。念を発動しようとした瞬間、「あの、」と意図せぬ言葉が口をついて零れた。

「この絵、おかしな曰くつきだったりしませんか?」
「……曰く?」
 二人は一瞬視線を交わしたが、共に心当たりがなさそうに目を眇める。
「特段そういった情報はないな」
「まあ今までの依頼品を思えば、疑問が出ても仕方ないわよ。でも残念ながらというか、幸いというか……ただの絵ね」
「そう、ですか……」
「あなた、この絵を知ってるの?」
「前に美術館で――…。結局ちゃんと見られなかったんですけど」
「そうなの。偶然ね」

 センリツは柔和に微笑む。一聴して他意のないことがわかる、穏やかな声色だった。

「その後、売買が繰り返される内に質の悪い扱いを受けて傷が入っちゃったみたいね。よくある話よ」
「そうですか。まさか最後にただの絵が出てくるなんて思わなかったので、つい」
「一理あるな。掃き溜めに……というやつだ」
「クラピカあなた、リーダーが聞いてないからって……」

 私の疑問は会話の中でさらっと流されていった。現在個人所有の品に対して“美術館にあった”はともすれば失言の類なんだろうが、どれもこれも正規経路の入手品でないのは互いに暗黙の了解なので、咎められることすらなかった。これもよくある話だ。
 絵画を覆って手を翳す。小さく息をついて、いつもの通り念を発動した。


 ――クロロは。

 あの夜、ただの美しい絵が欲しかったってことなんだろうか。ほんとうに?
 私が彼を庇って生死を彷徨った静かな美術館で、霞んでいく視界の奥にこの絵は飾られていた。盗品はしばらく手元に置いて裏の市場で売ってしまうと聞いていたから、流れ流れてここに在るのも不思議はない。

 でも――。
 どうしてこれが欲しかったのか、そういえば聞いてなかったな。あれほど近くにいたのに知らないことばかりだった。

 修復を終え、傷のないことを確かめるふりをして、私は初めてまともにその絵画を眺めた。どこか高い所からの景色を切り取ったように見える。空はオレンジと青に混じり合い、スクラップの山のようなものが眼下に広がっている。無機質な塊は柔らかい光を受けて陰を成し、空と地平の境界がひとつになって溶け合っているようだった。
 キャンバスを裏返す。作者のサインはない。タイトルは――人も建物も描かれてはいないのに、「街影」とだけ記されていた。



20241110
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