サイン怒号と大勢の足音。次々に駆け付ける車のブレーキ音。辿り着いた細い裏路地で息を切らし、傍らで気を失う女性に目をやる。ドレスの裾を裂いてひとまずの止血は行ったが、呼吸はか細く頼りない。さっき彼女の懐から見つけた携帯は、画面こそ割れていたが辛うじて致命的な損傷を回避していた。早々にGPSを辿ってノストラードファミリーとやらの仲間が来るだろう。 「……これからどうしよ」 自問してみたが何のアイデアもない。恐らく客と警備は残らず皆殺しだろう。賊の正体を知るのは私だけだ。その気がなくともそれを引き出す方法はいくらでもある。仮にマフィア側に漏れたとして大した情報じゃないが、生存者として、もし望まぬ文脈で旅団の名を口にすることになったら―― 「いやだな」 ただそれだけなんだけどと心中呟く。それ以上の形容が難しい感情だった。 中に誰もいないと騒ぐのが聞こえたから、シズクの能力で死体は全て回収されているはずだ。この女性が目覚めて証言するまで、私は生存にすら気づかれない。今この瞬間街を去るか?という考えが一瞬過ぎり、すぐに思い直す。少なくとも瀕死の彼女を引き渡してから考えるべきだ。薄汚れた壁に凭れかかった時、鋭く緊張した声が鼓膜を打った。 「ヴェーゼ!!」 その場で固まってしまったのは、駆け寄ってくる人影に見覚えがあったからだ。びりびりと肌に伝わってくる張り詰めた警戒心は、彼が私の姿をみとめても緩むことはなかった。 「……クラピカさん」 「なぜここに――オークションで何があった?」 彼の視線は壁際に立つ私と倒れている女性を素早く行き来する。聞かずとも既に察しているはずだ。 「私は修復の仕事で会場上の小部屋に待機してたんです。そしたら開始直後に凄い銃声が聞こえて…」 一度言葉を切ったところで、冷たい金属が擦れる音がした。 ――鎖。 見るとクラピカが右手に纏った数本の鎖が、無意識であろう何気ない指の所作で揺れている。昨日会った時も身に付けていた気がするが、その程度にしか印象づかなかったものが今はいやに耳について、根拠なく直感が告げた。ここで彼への偽証はタブーだ。 「……少しの間部屋に潜んでいて、何とか隠し通路から逃げてきました。彼女はその途中で、」 「他の客は?あと二人仲間がいた」 「私が逃げる頃には地下階段の方は静かでした。多分もう…」 「クッ……」 彼が苦い顔で唇を噛むと、女性の側に屈んでいたセンリツが携帯を片手に振り返る。 「クラピカ、リーダー達がすぐそこまで来てる。二台に分かれてヴェーゼは病院へ、一台は賊を追うわ」 「追う?」 センリツは黙して頭上を指差す。クラピカ同様に視線を引き上げた瞬間、高層ビルの隙間から信じられないものを見た。星の出た明るい夜空を悠々と横切る気球が一機。うそでしょ。心臓が大きく跳ねる。追手を挑発するように堂々と。 「気球か。消えた客の数と道理が合わない。念能力者だな」 「ええ。トチーノとイワレンコフがやられたこともそうだし…」 「急ごう。、ヴェーゼを助けてくれたこと感謝する」 「あ、いえ」 ぐったりした女性を抱え、クラピカが小さく頭を下げて踵を返した。彼の肩越し、路地の出口から別の仲間であろう人影が早く乗れと大声で叫んでいる。会場を調べていたマフィアが外へ出てきたのか喧騒が一層ひどくなってきた。気球に全員の注意が向いている。懸念していたほどには、私の生存を隠す必要はなさそうだ。 ひとまずこの場を離れよう。クラピカ達の背中を見送り、逆の方向へ歩き出そうとした瞬間だった。 「さん」 名を呼ばれ振り返る。 路地の途中で、センリツが足を止めていた。 「あなた――賊の姿は見た?」 「え?」 「センリツ急げ!!」 向こうで彼女の仲間が声を張り上げる。 それでもセンリツはじっと私の目を見つめていた。答えを待っている。今正に彼らは衆目を集めているのに、この問いに価値はあるだろうか。一刻の猶予もない状況で、――なぜ? 大通りの方から甲高い車のクラクションの音が近づき、また遠ざかる。 「――見てない」 私が答えるのと、痺れを切らした彼女の仲間が手を引いたのはほぼ同時だった。 声が届いたかどうかはわからない。路地から抜け出して見上げた夜空には、煌々と灯る気球の燈が、街を離れ小さくなっていった。 20241214 |